アメノミナカヌシ 神社。 最強!?アメノミナカヌシ天之御中主命神社(滋賀県)

すべての始まり!?アメノミナカヌシの神様とは?

アメノミナカヌシ 神社

みなさん、こんにちは。 ビジネス書や成功法則などが好きな人の中には、 さんをご存知の人もいると思います。 さんを紹介する時によく用いられるのは、 「日本で唯一の長者番付入り」や「、」などです。 恐らく聞いたことくらいはあるという人も多いのではないでしょうか。 そんな人さんは「アメノミナカヌシの神に助けて頂く方法」 なんていうことをお話したりしています。 そんなさんも話すくらいの神様、 「様 アメノミナカヌシノカミ 」を祭っている神社が、 ここ、埼玉県にもありました。 それは、埼玉県にある「」です。 公式サイト 【について】 は以前ご紹介した「」や「」と合わせて、 「三社」と呼ばれている神社の内のひとつで、 様が祖神の様を祀ったことが始まりとされています。 では「 やごころおもいかねのみこと 様」をはじめ、 「 ひこのみこと 様」や「 のみや やすひとしんのう 様」のほか、 「 あめのみなかぬしのかみ 様」をご祭神としており、 それぞれのご祭神の由緒は下記のとおりとなっています。 様-政治、学問、開運の祖神 様-地方開拓の祖神 様-北辰妙見としてに合祀 -の弟官様 【縁起物】 では鬼門守護として「つなぎの龍 絵馬」や、 いつまでも見て聞いて話せるようにと「お元気三猿 絵馬」などの独特な絵馬、 子どもが健康に育つよう願う「子宝・子育ての虎」の置物、 「智恵梟守」や「光る妙見守」などのお守りなど、さまざまな縁起物があります。 参拝の際はぜひ、見てみてくださいね。 【おわりに】 、如何でしたか。 もし、この記事を読んで「に行ってみたい! 」と思ってもらえたら幸いです。 また、は「あの花」や「ここさけ」の聖地でもありますので、 のついでなどでもぜひ、ご参拝してみてください。 i7swbg.

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『カミムスビ』のご利益と神社

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アメノミナカヌシは、古事記の中でも一番最初に出てくる日本の最高神です。 しかし、最高神にも関わらず、なんでこんなにマイナーなのか・・・・ 理由はただひとつ。 一回しか出てこないから・・・・。 しかも、日本書紀には出てすらこないってゆぅ。 分解してみると、日本の神様って笑っちゃうくらい「まんま」の名前が多いんです。 天御中主神の神話 さてさて。 では、名前も覚えていただいたところで、ミナカヌシがどんな神様なのか、じっくりとご紹介したいところなのですが・・・・・ 特になにもありません。 だって、一番最初に名前がぴょろっと出てきただけの神様ですからね。 天地開闢 てんちかいびゃく・高天原と葦原の中つ国がなんとなく分かれた時。 で、一番最初にミナカヌシが現れ、その後にタカミムスビ 高木 と、カムムスビが現れ、この一番最初に生まれた3柱の神様を「造化三神」って呼びます。 プラス、その後に生まれた2柱を合わせて、合計5柱が「別天つ神」。 しかし、5柱ともすぐに姿を隠しちゃって、ミナカヌシに関しては、その後二度と出て来ない・・・。 うちの古事記では、ちらほら出て来ますけど、ホンモノの古事記には、この一回しか出て来ないんです。 あと、もう一回、『ミナカヌシかな??』という登場シーンが、イザナギとイザナミが子づくりで悩んだ時に、別天つ神にアドバイスをもらいに行くところです。 そのときに、別天つ神が太占(ふとまに)で占ってくれた。 って記述があるのですが、『別天つ神』と書いてあるだけで、『ミナカヌシ』とは書いていない。。。 つまり、ホントになんの実績も無いんです。 あと、ミナカヌシの情報としては、「独神 ひとりがみ 」ってゆう、性別のない神様だってトコロかな。 そんなもんだな。 ・・・・以上。 その他 日本に仏教が伝わってから、ミナカヌシは、妙見菩薩(みょうけんぼさつ)や、水天様の元となったヴァルナ神さんと、同一視されるようになりました。 私は海外の神様はあんまり詳しくないんですけど、妙見菩薩さんは「天の中心の至高神」らしく、それで同一視されるようになったとか。 ヴァルナ神さんと同一視された経緯は謎です。 そのため、妙見菩薩さんや、水天さんを祀っている神社にちゃっかりミナカヌシも一緒に祀ってもらっていますw そして、水天さんの影響で、なぜか、水属性になりました。 あとは学説なのですが、ミナカヌシは「宇宙」を表した神なんじゃないかと言われています。 古代の日本人には、地球の外にもなんか底知れぬ大きなものを感じ取ってていて、それを神として表したのがミナカヌシなんじゃ。 って考えです。 現代っ子の私たちは当たり前のように「宇宙」があるってコトを知ってますけど、そんな知識なんて全然無い時代。 だいたい、なんか他の神様がメインで祀ってあって、「あ、そういえば最高神って書いてあったし、ミナカヌシも祀るか」みたいなノリで祀られてあったり、妙見菩薩としか書いてなくて「アメノミナカヌシ」の「ア」の字も書いてなかったり・・・ 妙見菩薩さんも、水天さんも、元は別の神様だしね・・・ なので、神社で、『天御中主神』の名前を見かけたら、ぜひ、手を合わせて『知ってるよっっ!!!』って伝えてあげてください。 たぶん喜びます。

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アメノミナカヌシ (ノカミ) 様の奇跡と潜在覚醒とは?神社や復縁、リサ・ランドール博士

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もちろん、712年という『クルアーン』(コーラン)の成立(650年頃)より半世紀以上あとに成立した『古事記』は、素朴な伝承集ではなく、近代的なと言っていいくらいに整ったテクストですから、 神話の構造とはまた違った書物の構造もそこに見ることが出来ます。 『古事記』は全3巻構成で、上巻が神代、中巻が伝説上の天皇の活躍譚、下巻が仁徳天皇から推古天皇までの記事になっています。 「序」は、内容的に、1.古代の回想、2.古事記撰録の発端(開始から中断までの経緯)、3.古事記撰録の完成(製作再開の経緯と表記への註)の三段に分かれています(各段の見出しは小学館「日本古典文学全集」による。 (カッコ)内は稿者による補足)。 「本文」もまた、 イザナギ・イザナミの国生みのエピソードをはさんで、前段は簡潔な文体、後段は豊饒な文体で書かれています。 さらに前段は、別天つ神(ことあまつかみ)と神代七代(かみよななよ)の二つに神々の属性が分かれています。 逆にいうと、 イザナギ・イザナミの国生み以降の具体的な神々の活躍譚は、前段の抽象部分を下敷きにしている可能性が高いと私は思っています。 『古事記』は、最初が最も分かりにくく、かつ最初から追わないと次が完全には分からない構成になっています。 これは、 一般の書物としては致命的です。 最初が難解な書物は、後段がいくら読みやすくても、そこに至る前に放り出されてしまうからです。 『古事記』のこのような構成は、『古事記』が、天皇家のみに伝えることを意図した「聖典」であることに起因すると考えます(『古事記』が「聖典」であることはを参照ください)。 「聖典」とは聖なる力の源泉でもあります。 権力者は、聖なる力を独占し、継承したいと願うはずです。 継承には、文字は最適な道具です。 口承では伝え手が死んだら伝言ゲームになることを覚悟しなければなりませんが、文字なら書き手が死んでもそのまま伝承を残すことができます。 ところが、 独占には、文字は最悪の道具です。 書かれたものは、読める人には等しくその内容が伝わってしまうからです。 文字は、今のAIのような当時最先端のテクノロジーかつシンギュラリティー(そこを超えると社会が一変してしまい後戻りできなくなるような技術的突破点)であり、その威力と脅威がともに強く意識されていたはずです。 『古事記』冒頭の難解さは、今でいうテキストデータの暗号化や圧縮のようなものではないでしょうか。 暗号化や圧縮されたテキスト情報は、外部のデコーダーがあればもとに戻すことができます。 『古事記』の冒頭は、圧縮されているがゆえに簡潔な記述になっていて(たった233文字に17柱もの神々が登場します)、その圧縮を解くと全体を理解するためのキーが現れる。 そんな構造であれば、 継承と独占を文字によって両立することができます。 この私の仮説は、妄想にすぎないのかどうか。 『古事記』を、その内在する論理に従って読んだ結果、筋が通れば仮説は検証され、筋が通らなければ仮説は妄想として棄却されます。 それでは、今回も、『古事記』の原文に入っていきましょう。 『古事記』の第一文めを再掲します。 書き下し文(漢字かなまじり文にあらためたもの)は、次のとおりです。 以下の現代語訳は、前回までのものに今回の内容を加え拡充したものです。 世界の始原。 天と地とがあった。 天は、天として自らを意識し、地は、地として自らを意識し、世界は世界となった。 時が、動き出した。 広大な天に、高天原(たかあまのはら)という場所があった。 そこに、 最初の神が誕生した。 名を、天之御中主神(アメノミナカヌシの神)と言った。 この神の誕生によって、世界に中心という概念があらわれ、この神が生まれたところが、天の中心となった。 高天原(たかあまのはら)は天の中心の場所となった。 この最初の神は、生まれながらに天の中心の神である。 解説は、前回に引き続き、稗田阿礼と一番の読み手であったであろう当時の皇子とのダイアローグ(対話)スタイルです。 阿礼 天地(あめつち)はじめてあらはしし時、つまり、天と地が自らに気づき、この気づきにより、時が動き出し、世界ははじまりました。 ここまでが前回でした。 今日はその次です。 皇子 うん。 阿礼 高天原に成りませる神の名は、天之御中主神(アメノミナカヌシの神)。 つまり、そのはじまりの時に、高天原に ある神が誕生し、その神の名を天之御中主神(アメノミナカヌシの神)と言ったのでした。 皇子 なぜ、ある神さまが生まれたなんて言うの?天之御中主神(アメノミナカヌシの神)様が生まれたんでしょう? 阿礼 天之御中主神(アメノミナカヌシの神)様が誕生されたことと、ある神さまが誕生されて、その神さまの名前が天之御中主神(アメノミナカヌシの神)様だったというのは、ちょっと違うんですね。 皇子 同じことじゃないの? 阿礼 それが違うのです。 神さまそのものを、すべてあらわしきってしまうような呼び名はありません。 あったとしても、それでは畏(おそ)れ多くて口にすることはできません。 そこで、 神さまをすべてあらはす名前は問わないことにして、その神さまの働きをもっともよくあらはす名前で呼ぶのです。 皇子 そうなんだね。 阿礼 中国では諱(いみな=忌み名)と言って、畏(おそ)れ多い方に対しては、本名を避ける風習があります。 ズバリの名前は尊すぎてその名を呼ぶことははばかれるので、その方の業績をたたえて、その業績を簡潔にあらわす名前が贈られます。 これに似ているように思います。 そして、 名前を持たずに生まれてくることは、それ以上に尊い意味があります。 皇子 それは何なの? 阿礼 皇子も誰も、人は名前を持たずに生まれ、名前を与えられます。 名前はその人を褒め称えその人の一生を祝福するために付けられるのですが、その 人の可能性は、その祝福の名前さえも超えるものです。 それが人が名前を持たずに生まれてくる意味です。 人は無限の可能性を持って生まれてくるということを、「神の名は、」というくだりが、教えてくれているのです。 皇子 うむ。 神がそうであるのなら、人もそうであるのは道理だね。 「神がそうなのだから当然人もそうなのだろう」という発想は、当時は一般的であったことが多くの研究から明らかになっています。 例えば、元号「令和」で一般にも有名になった中西進博士は、で、天智天皇(第38代天皇、在位668-671年)の皇太子時代の歌 「香具山は 畝傍(うねび)ををしと 耳梨(みみなし)と 相争いき 神代より かくにあるらし 古(いにしえ)も 然(しか)にあれこそ うつせみも 嬬(つま)を 争ふらしき」 を、 「香具山(女)は新たに現れた畝傍山(男)に心移りして古い恋仲の耳梨山(男)と争った。 神代からこうであるらしい。 昔もそうだからこそ、現実にも、愛する者を争うらしい。 」 と訳しています(前掲書p. 55)。 このような『古事記』や『万葉集』の時代の人々の発想を考察したものにがあります。 非常に面白いのでオススメです。 中心のような 抽象概念を神とするような発想は、中国のものであって、日本古来の発想にはありません。 皇子 じゃあ、天之御中主神(アメノミナカヌシの神)ってどういう意味なの? 阿礼 天之御中主(アメノミナカヌシ)は、天の真ん中の主、主(ヌシ)は、領有するという意味の(ウシハク)から来ていますから、天の真ん中を領有(うしはく)する神さまというお名前です。 人類学者の宮永國子博士は、日本語は具体に向かい合う言語であり、イメージが湧くときに共感し納得するため、相手の言葉が理解できないときには「もっと具体的に言ってくれ」と求めますが、英語の場合は、相手の言葉が理解できないときには、具体例と共に抽象的にビシッと一般原理で言うよう求められると言います。 () 具体のみで考えるのが日本語で、具体と抽象を往復して考えるのが英語だから、日本人は英語を使う米国人に比べ抽象思考が苦手なのだそうです。 確かに、『古事記』をはじめ、日本の古来の神々には抽象概念の神格化がない、あったとしたらその神は中国からの外来の神だというのが定説です。 ですが、 『古事記』の冒頭部分を読むと、具体と抽象を往復するのではなく、複数の具体を同時に扱うことで、一般原理を用いずに抽象概念を扱う思考があったように思えます。 一般原理というのは一神教に通じる思考ですから、具体は抽象に隷属する。 一方、 『古事記』には、一神教の発想には無い、具体と抽象との関係を見ることができます。 しかし、今の日本にはもはや、複数の具体を同時に扱うことで一般原理を用いずに抽象概念を扱う思考は、消えてしまっているように思えます。 宮永博士の指摘するように、具体だけで考え抽象思考の苦手な人たちと、英語の発想を取得し、具体と抽象を往復し具体を一般原理に隷属させて考える人たちに、 我々は引き裂かれているのではないでしょうか。 『古事記』の冒頭部分は、失われた思考によって書かれているために、我々には難解です。 でもそれをのり超えて、現代の私たちがその思考を取り戻すことは、この裂け目を見据えるという意味で、とても重要なのではないでしょうか。 最も輝いている星(シリウス)が天の中心だとは言えないでしょうか? 皇子 それを言うなら月だよ。 月の方がずっと明るい。 阿礼 いいえ、太陽の方がもっと明るいですよ。 何も天は夜だけではありません。 皇子 そうだね。 それでは、天之御中主(アメノミナカヌシ)は、太陽のある場所にいるんだね? 阿礼 天之御中主神(アメノミナカヌシの神)は、太陽にも、月にも、シリウスにも、北極星(ポラリス)にも、天の中心と思われるすべての場所にいらっしゃいますし、そのどれかの場所にいらっしゃるとも言えます。 皇子 それは無理だよ。 どこかにいたら、別のどこかにはいることはできない。 阿礼 そうでしょうか?すべてに意識が行けばすべてに、どれかに意識が行けばそのどれかに、そこを領有する天之御中主神(アメノミナカヌシの神)がいらっしゃいます。 皇子 そうなの? 正直、意識の話は、よく分からないんだ。 でも、 中心と思った場所に天之御中主神(アメノミナカヌシの神)がいらっしゃるということは、分かったよ。 だけど、どうせなら、一番の中心にいるのが格好いいよね。 それはやっぱり太陽かな。 阿礼 まだ一番の中心にこだわっておいでですね。 でも、 一番の中心を考えないというのが、天之御中主神(アメノミナカヌシの神)の名前が教えてくれることであり、天皇家に伝わる智慧なのですよ。 有力豪族の中には、北極星を天の中心として信仰している一族もいれば、シリウスを天の中心として信仰している一族もいれば、月を天の中心として信仰している一族もいるでしょう?その どれかを一番の中心としてしまえば、その一族としか組めません。 皇子 いや、だからさ、どれかの一族と組むのではなくて、我々が天に最も明るい太陽を一番の中心として掲げ、他の中心を掲げている一族を従えればいいじゃないか。 阿礼 それでは、天照大御神(アマテラス)から世界が始まっていることになってしまいます。 天皇家の伝承はそうではないのですから、天皇になられる皇子は、最初の神が天之御中主神(アメノミナカヌシの神)であることについてきちんと理解しなくてはいけません。 皇子 でも、 天照大御神(アマテラス)より前の神の話を飛ばしてしまえば、天皇家の強さを、より力強く訴えることが出来るんじゃない?思い切って『古事記』の最初のところは端折(はしょ)っちゃったらいいじゃないか。 阿礼 天の中央に唯一の最高神がいるとした中国は、確かに強大ですが、その王朝はどうなりましたか?何度も代わっているではありませんか。 唯一絶対を掲げれば、一時の勢いは確かに強大になるかもしれませんが、やがては別の唯一絶対を掲げるものに取って代わられてしまうことを中国の歴史は教えてくれています。 それに、一番を手にしたからと言って、それが独占を意味することにはなりません。 渡来人に聞いたところ、世界のあちこちの地域に、太陽をシンボルにする王族があるそうです。 太陽が太陽に滅ぼされることだってあるかもしれません。 天之御中主神(アメノミナカヌシの神)からはじまる最初の神々を飛ばして、 天照大御神(アマテラス)からのはじまりにしてしまえば、天皇家もきっと中国の王朝と同じ運命をたどってしまうでしょう。 今がよいだけではダメなのですよ。 天之御中主神(アメノミナカヌシの神)は、古来一般の信仰対象ではありませんでした。 『延喜式』にも天之御中主神を祀る神社は一つも掲載されていません。 現在、天之御中主神を祀っている神社は、全て、明治の神仏分離政策によって、天之御中主神が祭神とされたものです。 例えば、恐らく東京で最も有名な天之御中主神を祀っている神社は 「水天宮」ですが、これは文字通り「水天(バルナ)」というインド由来の水の神である仏教守護神を祀ったお宮でした。 バルナは非常に強力な神さまで、イランに伝わって、ゾロアスター教の最高の善神アフラ・マズダとなります。 バルナは、神さまは神さまですが仏教守護神なので神道の神さまとしては祀れない。 そこで、最高つながりで天之御中主神ということになったのです。 このほか、 福岡県の摩利支(まりし)神社のご祭神も天之御中主神です。 こちらは、 「摩利支天(マリーチ)」というインド由来の太陽光・月光の仏教守護神を祀ったお宮でした。 水天宮と同様に、明治の神仏分離政策により、神道の神さまとしては祀れなくなり、太陽光・月光=天の中心からの光という連想から、祭神の名前が天之御中主神になりました。 また、 天之御中主神を祀る神社の由来で最も多いのは、かつて妙見菩薩とされていた祭神が名称変更されたものです。 妙見菩薩は、菩薩という名前ですが、先の水天や弁財天などと同様に天部すなわち仏教の守り神とされます。 道教の北極星信仰として日本に伝来し、関東を中心に全国的な信仰を集めました。 それが、明治の神道重視策で菩薩名を避け、 北極星=天の中心という発想から天之御中主神になったものです。 このように、もともとは別の神さまがいまでは天之御中主神として祀られています。 これは、天之御中主神が、北極星でも、太陽でも、月でも、シリウスその他、天の中心と考えられるどこにでもおられ、 天の中心はそのどれでもあり、どれか一つに縛られないという発想がもともとあったからこそ可能になったのだと思われます。 (につづきます).

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