チェスター バーナード。 チェスター・バーナード『組織と管理』を読む

23.最強の組織〜私がJC(青年会議所)で学んだ24.5のコト

チェスター バーナード

チェスター・バーナード『組織と管理』を読む チェスター・バーナード『組織と管理』を読む Internet Explorer は動作保証対象外 Version 1. 6 Last Modified: May 09, 2020 はじめに このページについて このページは、チェスター・I・バーナード(Chester I. Barnard)の『組織と管理』の論文のうちから田中がセレクトしたものについての解説(研究ノート)である。 バーナードのテキストを読みながら、田中が要約したりコメントをつけるという形になっている。 取り上げる論文は以下のものである。 「人事関係におけるいくつかの原理と基礎的考察」• 「民主的過程におけるリーダーシップのジレンマ」• 「1935年、ニュー・ジャージー州トレントンにおける失業者の騒動」• 「リーダーシップの本質」• 「組織の概念」• 「世界政府の計画化について」• 「経営者のための教育」• 「公式組織におけるステータス・システムの機能と病理」 このページは、田中求之が、福井県立大学・経済学部で担当している経営組織論の授業の補助教材として作成したものである。 バーナードの主著である『経営者の役割』 The Functions of the Executive と彼の組織論についての理解を深めてもらうために作成した田中の個人的なノートであり、ここに書かれたバーナードが、バーナードの「正しい」姿でもなく「すべて」でもない。 その点は注意して欲しい。 あくまでも、バーナードの組織論との出会いを手引するものである。 このページを読んで関心をもたれたら、ぜひ『組織と管理』を読んでほしい……とはいえ、『組織と管理』の翻訳は絶版のようで、古本でしか手に入らないのが残念だが。 バーナードのコメンタールとして以下のものを公開してある:• チェスター・バーナード『組織と管理』を読む(このページ)• 上記のページを含めた田中によるバーナードのコメンタールなどは、以下のページに一覧をまとめてある:• テキスト 『組織と管理』は飯野春樹監訳・日本バーナード協会訳(文眞堂、1990)と"Organization and Management" Harvard University Press, 1948 を用いる。 基本的には訳書を読んで行き、引用も翻訳から行う。 田中が必要と考えた箇所では原文も引用する。 バーナードの本の訳文は、今の学生体にとっては、決して読みやすい文章ではないであろう。 バーナードの本は文学ではないし教典でもないのだから、言葉遣いといった、本質的とはいえないものが理解を妨げるのは残念である。 また、『組織と管理』は章ごとに用語などのばらつきもあるものとなっている。 というのも、この翻訳は日本バーナード協会に所属する研究者が、それぞれの論文を翻訳し(各章には翻訳者がクレジットされている)、それを最終的に飯野春樹氏が訳語などのチェックや修正を行うという形でまとめられたものである。 このため、章ごとに文体や訳語の違いが大きく、また誤訳ではないかと思われる箇所もある。 このため、なるべく学生が読みやすいように、訳文の修正を行っている。 また、田中自身の独断的解釈にもとづいて、大胆に修正を行っている箇所もある。 この点は注意して欲しい。 文中の小見出しのうち、原文が付していないものは田中がつけたものであり、原文が併記されているものはバーナードの原書の中で節のタイトルなどとして書かれているものである。 また、引用文中における強調(日本語は太字、英語は斜体)は、特に注記していないかぎり原文のまま、つまりバーナードによるものである。 『組織と管理』(Organization and Management)を読む 『組織と管理』について 『組織と管理』は、主著『経営者の役割』の出版後、論文の抜き刷りなどの依頼が多くなったことなどから、バーナードが1948年に自費出版として出版された9編の論文からなる論文集である。 1935年から1946年にかけて執筆された以下の論文が収められている。 序 第I章 人事関係におけるいくつかの原理と基礎的考察 Some Principles And Basic Considerations in Personnel Reations 1935 第II章 民主的過程におけるリーダーシップのジレンマ Dilemmas of Leadership in The Democratic Process 1939 第III章 1935年、ニュー・ジャージー州トレントンにおける失業者の騒動 Riot of The Unemployed at Trenton, N. , 1935 1938, 1945 第IV章 リーダーシップの本質 The Nature of Leadership 1940 第V章 組織の概念 Concepts of Organization 1940 第VI章 世界政府の計画化について On Planning for World Government 1944 第VII章 バーバラ・ウートン著『計画化と自由』の書評 A Review of Barbara Wootton's Freedom under Planning 1946 第VIII章 経営者のための教育 Education for Executives 1945 第IX章 公式組織におけるステータス・システムの機能と病理 Functions and Pathology of Status Systems in Formal Organization 1946 この中のうち、組織に関連する3つの論文については、バーナード自身が序の中でコメントを加えているので、その部分についてもみておくことにする。 序(Preface) 序でバーナードが述べていることのうち、「組織の概念」「世界政府の計画化について」「公式組織におけるステータス・システムの機能と病理」についてコメントしている部分をみておく(執筆の経緯などは取り上げない)。 この論文の最初の部分は私の組織概念を扱っています。 それは非常に抽象的で、多くの人々には非現実的とみえましょう。 この組織概念は、行為者である個人よりも調整された活動としての組織を強調しています。 個人は同時にいくつかの組織の「メンバー」であることが多く、その活動が同時に一つ以上の組織の機能になることも往々にして見られます。 この組織の概念は「場」の概念であって、そこで活動が起こり、活動が「諸力」、あるいは人間的で社会的であり、あるものは物的である諸力、の場によって支配されています。 後で見るように、「組織の概念」では、組織を貢献者の貢献のシステムとみなすというバーナードの組織概念を改めて説明したものである。 メンバーではなく貢献者で考えること、そして人ではなく活動や諸力によって構成されているとみなすべきこと、こうしたエッセンスがここでも述べられている。 階層組織と側生組織の比較にあたって提示された考察は、全体主義をとるか自由社会をとるかという現代の主要な政治問題に必然的に関連します。 われわれは、自分たちの運命を決めるような大きな仕組みを作ろうと熟考することによって、ますます計画化を信じ、自分たちの能力を信じています。 これは、環境に対する必然的に予め計画されえない包括的な適応よりは、環境に対する支配を確信することです。 これにともなって、公式には統制不能であるがそれでも相互依存的な部分からなるシステムの、環境に対する自律的適応能力を信頼しなくなりました。 われわれは、われわれの社会の無数の変数間の複雑な相互作用の無意識的適応からのがれることはできません。 実際、大きい公式組織における管理における重要な技術は、集団が全体として、意識的統制なしに、情況にかなうように自律的に行動するよう、職員を訓練し、条件付け、選択することです。 これが、多くの教育の潜在的な目的です。 しかし、われわれの大抵は、自律的適応をのがれえぬこととそのような適応の理論的根拠の両方を、おそらくは誤った知的プライドゆえか神秘主義のおそれゆえか、理解できないようです。 「世界政府の計画化について」という論文は、世界政府という公式組織のありうる姿を考察することを通じて、計画化への過信を批判するという論文になっている。 この中で、側生組織という新しい公式組織の型について考察がなされるのだが、論文全体を通じては、上で述べられているように、すべてを意識的・計画的に遂行することの困難さを指摘するものとなっているのである。 これは、人が自明の問題として知っていること、ノー・ハウの問題として応用していることのヨリ広い側面が、まったくあからさまに考察されないままになっている事例です。 木に近づき過ぎて森を見失うたぐいでしょう。 これは、その知識を経験から得ている人に絶えず付きまとう制約です。 もちろん私は、そのような経験が組織の徹底的な理解には不可欠であると思いますが。 」私はわが著作から、ハムレットとは言わないが、オフェリアくらいを見落としていました。 そして、そのことを私は7年間も気づきませんでしたし、誰もこの脱落を私に知らせてはくれませんでした。 ここに述べられているように、また『経営者の役割』日本語版への序のなかでも述べられていたように、バーナードにとってステータスの問題は、主著に足りなかった重要なものとして位置づけられている。 人事関係におけるいくつかの原理と基礎的考察 Some Principles And Basic Considerations in Personnel Reations この論文について 1935年にプリンストン大学大学院の労使関係に関する会議コースで行った講演の記録である。 ここでバーナードは、人事政策の基本原理として従業員の成長をおくべきだと主張している。 福利厚生に走るよりも原理に忠実であるべきこと、団体交渉による労使の対立という構図がもたらす問題、さらには組織における非経済的誘因の重要さなどを展開する。 『経営者の哲学』に収められている「企業経営における全体主義と個人主義」(1934)で述べられている内容を、ストレートな提言として述べたものになっているので、併せて読むとバーナードの立ち位置が明解になるだろう。 ここでは議論を丹念に追うのではなく、バーナードの主張を押さえる形で整理しておく。 まず組織の問題を考えるさいに、個人にたいして注意が払われていないことを指摘する。 われわれの当面の個人的関心が含まれている場合を除いて、われわれの考え方は、全体として、人生の協働的および社会的側面にかかわっている。 われわれはあまりにも組織の諸問題に注意を奪われているので、われわれの組織の構成単位を無視し、しかもそれを無視していることにまったく気づいていない。 個人を考慮せざるをえない場合は別として、個人を忘れることが、われわれにとって好都合であるかのようにさえ見える。 The whole complex of thought, except when our immediate personal concerns are involved, relates to the cooperative and social aspects of life. We are so engrossed constantly with the problems of organization that we neglect the unit of organization and are quite unaware of our neglect. It almost seems to be to our purpose to forget the individual except as he compels consideration. 近代の会社組織にいたる西洋の協働の発展史を通観して、協働が発展してきたことと、その反面として個人が省みられにくくなってきたことを述べている。 そして最後に、近代株式会社制度と組織的労働運動が成熟し、これらすべては、相互依存、協働、編成を、人生の本質的側面として、文明の建設的諸力として強調し、ついには個人の国家、社会、経済機構への従属が慣習的心的態度となるまでにいたった。 個人を考慮に入れることが極めて困難になってしまった。 Then finally flowered the modern corporation and the organized labor movement, all emphasizing interdependence, cooperation, regimentation, as the essential aspects of life, as the constructive forces of civilization, until the subservience of individual to state, society, economic machinery, is the habitual attitude of mind. It has become exceedingly difficult to consider the individual. しかし、個人を考慮することなしに協働は成り立たない: 無数の方法でなされる組織的協働ゆえに、人口の増大と生活水準の向上の双方が、そしてたぶん生活の質の向上さえもが、大いに達成されてきた。 社会におけるこうした組織がなければ、後退は不可避である。 しかしながら、これらの事実を認めることは、個人が個人として存在することを否定するわけではない。 組織されているのは個人であり、集団の有効性は、集団化の仕組みと機能に依存するばかりでなく、基本的構成要素の質にも依存している。 いずれかの側面を極度に無視することは、実際上不可能である。 By reason of organized cooperation in innumerable ways, both population and the standard of living, and perhaps even the quality of living, have greatly increased. Without such organization in society, retrogression is inevitable. Recognition of these facts, however, does not require a denial of the coexistence of the individual. It is individuals who are being organized, and the effectiveness of the group depends not only upon the scheme of grouping and function, but upon the quality of the elementary units. It is impossible in practice to disregard either aspect very far; そしてバーナードの人事政策についての考えが次のように述べられる: 個人としての従業員の能力、成長および心的状態は、人事にかかわるすべての政策や実践の中心でなければならない、と私は強く確信する。 My own belief is strong that the capacity, development, and state of mind of employees as individuals must be the focal point of all policy and practice relating to personnel. 個人の意欲が鍵である: 組織、機構、政策、集団的方法が次第に強調されてきている世界においては、全産業における動態的な努力への鍵は個人であり、また、産業のなかで成長しようとする個人の意欲である、ということを常に留意しておくことは、良いことであり、かつ実際的である。 そして、多くの組織において、それが弱いところでもある。 厳密に検討してみると、協働的努力の鎖の中で最も弱い所は、協働しようとする意欲であることが明らかになるであろう。 協働の成果を謳っている場合でも、もし個々人の意欲の問題がもっと適切に扱われていたら、その成果はもっとおおきなものになったはずだ、ということを、バーナードは少しひねった言い方で述べている: われわれは、組織化された努力の達成した業績を好んで誇りとするけれども、われわれがそうできるのも、多くの場合、ただ単に、個人目的とほんのわずかだけしか関係しない共通目的のために、人びとを心からいっそう協力させる方法をしっているならば達成できることに眼をつぶっているからである。 人びとをいっそう協力させる鍵となるのは経営者の誠実さと高潔さに対する信頼であり、それは正直であることを続けることでしか得られるものではないとバーナードは言う。 従業員は、経営者が間違わないことや、道徳的な完全性などを求めてはいない。 誠実で正直であることが大切なのだと説く。 それらは日々の言葉と行為の積み重ねによって生まれていくものである。 このように、人事の基本は個人の発展とするバーナードは、福利厚生に関して、二次的な意義は認めつつも、それを中心に考えることを批判する: それら(=従業員の福祉計画)は積極的な人事管理に代わるものではないし、また、個人の発展あるいは協働意志の育成—私の見るところ、健全な人事政策の二つの基本的目標をなす—に対して、それ自体としては大きく貢献するものではない。 従業員関係の適切な遂行に代わるものとしては、それらは無益で危険なものである。 また、組織の活動における非経済的要因の重要性を指摘し、金銭的要因の過大評価を戒める。 バーナードの言葉を拾っておく: 私は、種々のよく経営されている事業をいくつか観察した結果、経済的動機に基づいていない事業決定が絶えずなされていることを確信するようになった。 これは事業家がめったに認めようとしないことであり、それについて気づいていないことが多いことである。 ……こうした非経済的活動の長い目録が、実際に事業経営を条件づけ、ただ貸借対照表のみが、これらの非経済的活動が野放しになるのを防いでいる。 しかしこれらすべての刺激なしには、ほとんどの事業は精彩を欠いた失敗になるであろうと思う。 金銭には、われわれが経験するどの程度の規模においてであれ、事業経営を維持してゆく足る活力はなく、あるいは、直接金銭で購入できるようなものは、適切な刺激とはならない。 In the broad sense that no business can escape its balance sheet; it is true that economic or money motive governs the administration of business. Nevertheless my observation in several different well-managed businesses convinces me that business decisions are constantly being made that are not based upon economic motives. This is something that business men seldom admit, and of which are frequently unaware. A long catalogue of non-economic motives actually condition the management of business, nothing but the balance sheet keeps these non-economic motives from running wild. Yet without all these incentives I think most business would be a lifeless failure. There is not enough vitality in dollars to keep business running on any such scale as we experience it, nor are the things which can be directly purchased with money an adequate incentive. 重要な点は、経済的動機だけがもっぱら支配的であるという非現実的仮定に立つかぎり、人事関係の核心に到達したり、あるいは労働争議や労使関係の成功を理解したりすることができないということである。 経済的動機は、単に限定を加え、方向づけを行うに過ぎない。 同様に誤った仮定として、経済的動機は、事業や経営に対する従業員の態度を主として支配する動機であるとするものがある。 ……賃金で平和や満足が買えると仮定するかぎりは、人事問題の理解はありえないのである。 第三の困った、偽りの仮定は、事業で機能している経済的動機は利潤動機であるというものである。 ……、それは継続的事業の運営に当っての支配的な経済的動機ではない。 利潤ではなく、損失の恐れが、事業体を支配している。 ……私が言いたいのは、経済的動機が労使関係を支配し、あるいは支配できるというのは、かなりの、そして重要な程度にまで正しくない、ということであり、そして、このことは特に利潤動機について妥当する、ということである。 集団的取り引き(団体交渉)の哲学は、協働的態度と健全な人事諸目的の発展とに基本的には対立し、集団的協働の哲学は、健全な人事慣行や結果の発展を促進する。 このように、バーナードは個人が協働に関わることで発展していき、そこから協働意欲が育まれるようにすることが人事政策には必要だと説くのである: 要約すると、私は、個々の従業員の発展が最も重要であって、これに主として協力への意志の促進が付け加えられるべきである、という認識が、人事関係の進歩にはなければならないと信じている。 これらの目的の達成にあたっての基本的な第一歩は、使用者と経営者の完全な誠実さと正直さである。 In summation, I believe the progress in personnel relations involves recognition that the development of the individual employee is of first importance to which must be added chiefly the promotion of the will to collaborate. The essential first step in accomplishing these purposes is complete sincerity and honesty of employers and managers. かなり端折った形でみてきたが、バーナードが個々人の活動があってこその協働であるという立場に立っていることはクリアである。 以上でこの論文については終わり。 民主的過程におけるリーダーシップのジレンマ Dilemmas of Leadership in The Democratic Process この論文について 第2章に収められているこの論文は、民主的諸制度の限界と欠陥について論じたものである。 バーナードは、民主主義の本質を民主的過程によるガバナンス(統治)と捉え、その特質や限界などを論じていく。 また、組織におけるガバナンスのシステムという一般的な議論も展開されている。 タイトルからはリーダーシップに関する論文のように感じられるが、バーナードが統治システムとしての民主的過程と、そこでのリーダーシップの問題について述べたものになっている。 バーナードは、基本的には民主主義国家アメリカで生まれ育った人間として、民主主義が素晴らしい制度であることを信じている。 しかしながら、民主主義を盲信することの危険性や、民主主義が構造的にもつ欠点を見過ごす危険性を感じるがゆえに、民主主義について批判的に吟味する作業を引き受け、民主主義が人間の協働に関わるものである観点から、民主主義の検討を行っていく。 民主主義の原則は、人間にとって必要不可欠なものである人間同士の無意識的で本能的な適応のうえに、公式的な知的活動から得られる協働上の知性を重ね合わせる努力を表している、と私が信じているが故に、いっそう喜んでこの仕事を引き受けようと思う。 The more gladly also because I believe the principle of democracy expresses an effort to superpose upon the unconscious and instinctive adaptations of men to men, so indispensable, an intelligence in cooperation secured from formal intellectual operations. 民主的統治の諸要素 The Elements of Democratic Governance バーナードは民主主義に関して、以下の4つの命題をまず提示して、それに基づいて論考を進める:• その第一は、「民主主義」は協働システム内での行動にかかわるということである。 One is that "democracy" relates to behavior within a cooperative system.• 第二の事実は、民主主義は統治(ガバナンス)にかかわり、それは統治のための意思決定をするある種のシステムだということである。 The second fact is that democracy relates to governance and is some kind of system of making governing decisions.• 第三に民主的決定は、公式的な過程によって意識的に決められる公式的な決定である。 それらは単に、社会における諸個人の非公式的な相互作用から生じる制度ではない。 いいかえれば、民主主義はただ単に社会的仕組みに関係するものではなく、統治的なものである。 Third, democratic decisions are formal decisions, consciously arrived at by formal processes. They are not merely institutions resulting from informal interactions of individuals in a society. In other words, democracy is not merely societal, it is definitely governmental.• 最後の命題は、公式に、そして慎重に統治される社会の努力が、全体として、公式組織を構成するということである。 民主主義は一般に、公式組織が機能し、自らを維持していくための利用可能な過程の一つまたは集合であるか、あるいはそれを伴うものである。 The final proposition is that the effort of a society formally and deliberately governed, as a whole, constitute a formal organization. Democracy is or involves in general one of the available processes or set of processes by which formal organizations may operate and maintain themselves. このように、バーナードは、民主主義の本質を公式組織における公式的ガバナンスのシステムの一形態としておさえて、その統治システムとしての民主的過程の特質の解明へと切り込んでいく。 まず、統治システムというものについての議論が展開される。 協働システムの統治システムというのは、当然のことながら、協働システム(組織)が存立・存続するのかということが重要である: この経験が示していることは、なんらかの統治システムの最後の決め手は、それを用いている組織が存続しうるかどうかである。 いいかえれば、ある統治システムが十分良いと言えるためには、すくなくともその統治システムが「作動」しなければならない。 もし組織が存続できなければ、組織とともにその統治システムもまた滅び、それは当該組織にとってなんのメリットももたらさないのは明らかである。 This experience shows that a final test of any system of governance is the survival of the organization in which it is used. In other words, any such system to be good enough must at least "work. " If an organization cannot survive, it is obvious that its system of governance perishes with it, and has no merit for that organization. 組織の存続は、『経営者の役割』で展開されていたように、内的均衡と外的均衡、有効性と能率の確保が鍵となる: 組織の存続は、次の二つの一般的要因に依存している。 すなわち、 1 組織の外的諸関係に関しての、統治システムの有効性、 2 その内的能率、つまり具体的諸行為の凝集性、調整および服従を確保する能力、である。 広い範囲内で両者は相互に依存し合う要因である。 どのような行動が有効的であるかを決めることができないようなシステムは、それが失敗するからか、あるいは失敗するかもしれないと信じられているからか、いずれかの理由で、必要な凝集性、調整および服従を得ることも維持することもできない。 逆に、必要な支持と服従、さらに諸活動の調整を確保しないシステムは、行動を有効的に指揮することができない。 こうして、あらゆる統治システムに関して問われるべき主要な質問は、「それは外的条件に適応した行動を適切に決めているか」、「それはそのような決定を有効にする服従を確保しているか」である。 Survival depends upon two general factors: 1 the effectiveness of the system of governance as respects the external relations of the organizations; and 2 its internal efficiency, that is its capacity of securing cohesiveness, coordination, and subordination of concrete acts. Within wide limits these are mutually dependent factors. A system that cannot determine what action will be effective does not enlist or maintain the requisite cohesiveness, coordination, and subordination, either because it fails or is believed to be failing. Conversely, a system that does not secure the necessary adherence and subordination and coordination of activities cannot direct action effectively. Thus the primary questions to be asked concerning every system of governance are: Does it adequately determine action adapted to the external condition? Does it secure the subordination making such determinations effective? このように、組織の存続という観点から、統治システムを評価する二つの基本的問いが定式化され、これに基づいて民主的過程の議論へと踏み込んでいく。 本質的な民主的過程 The Essential Democratic Process 統治システムとしての民主主義の本質として、バーナードは民主的過程をとり出す。 (どの「民主主義」にも観察可能な共通要因)それは、協働体の全体に影響する少なくともいくつかの決定を行うにあたって、ある過程を用いるということである。 この過程は、統治のための公式的な提案—公表された政策、特定のプロジェクト、特定の地位への特別な人物の選任など—に対する有権者の公式的な同意を確保する過程であって、それは賛成者、反対者の総数の計算に依存する決定である。 これは投票による決定である。 A common element is observable in all "democracies. " This is the use of a certain process in the making of at least some of the decisions affecting the whole of the cooperative body. This is decision by vote. このように、協働における意思決定や選抜の方法という次元で、話し合いと多数決を用いる決定のプロセスである民主的過程に焦点を絞るのである。 そして、民主主義は、この民主的過程にどれだけの人びとが参加するかに依存すると述べる: 実際、民主主義は、共通の決定によってその行動を支配される人びとが、そのような意思決定の形成に民主的過程を通じて公式的にどれだけ参加しているかの程度に依存しているといってもよいだろう。 民主的過程の基本的なテスト The Fundamental Tests of The Democratic Process 統治システムとしての民主的プロセスは、「民主的過程はなすべきことを適切に決定するのだろうか」「それは統治のために決定されたことを有効的に実行するのに必要な服従を確保するものであるか」という二つの問いのもとに考察される必要があるのだが、この点で、民主過程がジレンマをはらむものであり、それゆえに適切な決定が行えなくなるような限界をはらんでいることを指摘する。 バーナードが指摘する限界とは以下の4つである。 1 民主的過程の限界 limitations of the democratic process• 2 選挙権をもつ人びとの限界 limitations of those who have the franchise• 3 リーダーである人びとの限界 limitations of those who are leaders• 4 諸条件それ自体に内在する限界 limitations inherent in the conditions themselves これらの限界は相互関連的で相互依存的であるがゆえに、民主的過程の問題などをどれか一つに帰することはできないという。 民主的過程の利用に内在するジレンマ Dilemmas Inherent In The Use Of The Democratic Process 民主的過程に内在する固有のジレンマとして、バーナードは以下の4つを指摘する:• 部分的な同意と完全な順応との対抗 the opposition between partial consent and complete conformance• 抽象的な決定と具体的な行動との食い違い the discrepancy between abstract decision and concrete action• III. 時間のずれ time-lags• 政治的対立 political conflict 以下、この4つのジレンマについての考察がなされていく。 同意と順応のジレンマ The Dilemma of Consent And Conformance これは、民主的過程は、部分的同意による意思決定(全員一致ではない)ということである。 協働的行動には実質上完全な順応が必要とされるのに、民主的方法は部分的同意による決定の一つである。 こうして民主的過程は、原則の基本的な対立を含んでいる。 このことは、しばしばリーダーの行動に見られると私は信じているけれども、それはほとんど述べられたことはないし、ごくわずかな人にしか認められていない。 それは誤った(非効果的な)決定に導き、それゆえに民主的過程に対する信頼の減退、あるいは民主的過程の放棄にさえ導くものであるから、実践上極めて重要である。 The democratic method is one of decision by partial consent, whereas cooperative action requires substantially complete conformance. Thus the democratic process involves a fundamental conflict of principle. It is of great practical importance because it leads to false ineffectual decision, and thence to decreasing confidence in, or even abandonment of, the democratic process. バーナードにおいては、貢献者や権威受容説の議論に見られるように、メンバーシップの受容による権威の一般化というものを組織の基本的なレベルにはおかない。 それゆえに、あくまでも権威受容説的観点、つまり、協働に関与する人間の合意なり承認なりがなければその人間は動かないという観点からすれば、そうした決定の受容と順応が、多数決では得られないということがジレンマとして現れてくるのである。 存続し、持続していくためには、どの組織も—大きな国家であれ、限られた範囲の小さな組織であれ—その環境条件に有効に対処するにふさわしく、全体として行動しなければならず、また、個人の行為はこれらの要請に順応しなければならない。 この順応はまったく一般的でなければならず、また、積極的でも消極的でもなければならない。 すなわち、ほとんどすべての人は要請されたことを実行することによって、また、禁じられたことを控えることによって、順応しなければならないのである。 かように、調整された努力の過程と民主的決定の過程との間の対照は顕著である。 というのは、協働はほぼ全員の意思の一致を意味するのに対し、民主的過程は採決による—投票権をもつ人びとの過半数の、あるいは通常は単純多数による—決定を意味するからである。 This conformance must be quite general and both positive and negative; that is, nearly every one must conform by doing the things required and by refraining from those forbidden. (強調は田中) こうした民主的過程による決定が受容されるには、過程への信頼、組織のガバナンスへの信頼が必要である、とバーナードは述べる。 信頼があって、はじめて合法的なものとして受容される。 数ある事情の中で、とりわけ民主的過程への信頼があって、そのような決定が諸個人の行為を合法的に統制するものとして受容される場合にのみ—個人的には不同意であっても—、それらの決定は調整された行動の中にその効力を現しうる。 Such determinations can become effective in coordinated behavior only as, among other circumstances, faith in the democratic process leads to their acceptance as legitimately controlling the acts of individuals notwithstanding individual dissent. 民主的過程への信頼が得られる情況として、次の3つをあげる。 a 選挙権が、実質的に同じようなステータスの、同じような信念をもった、また同じような情緒的反応をみせる人びとに適用された場合 the franchise applied to persons of substantially similar status, similar beliefs, and similar emotional reactions• b 特定の基本的な個人的権利が実際に民主的過程から排除された場合 certain fundamental personal rights were in practice excepted from the democratic process• 抽象的なものと具体的なものとのジレンマ The Dilemma Of The Abstract and The Concrete このジレンマは、民主的過程で議論され決定される内容と、実際の行動のレベルとの差異のことである。 この差異は、民主的過程に限らず、組織のガバナンスのシステムが一般的にはらむものであるといえるだろう。 つまり、ここでバーナードが展開している議論は、「事件は会議室で起こっているんじゃない」という、組織的決定のジレンマの議論であるとみなせるのである。 第二の型のジレンマは、第一のものと密接に関係しているが、抽象的なものと具体的なものとの間の、理念の言語化とその理念がかかわる特定の行動との間の食い違いということである。 The second type of dilemma, closely related to the first, lies in the discrepancy between the abstract and the concrete, between the verbalization of ideas and the specific activities to which they refer. バーナードは、民主的過程は本質的に抽象的であると指摘する: 民主的過程とは、言語的な声明の形をとった決定の過程である。 問題が公式的に決められるだけでなく、決定は、選挙権に関する詳細な規定をもった一定の投票手続によってなされる。 そのようにしてなされたどの決定も当然に抽象的な提案である。 The democratic is a process of decision in the form of a verbal statement. The issues are not only formally determined, but decisions are made by definite procedures of voting with specifications as to the franchise. Any decision so made is necessarily an abstract proposition. 言語による、手続的な過程であるがゆえに抽象的というのは、やや強引に感じられもするが、議案として整理され、討論され…… という会議が、現場で起こっている問題からすれば抽象的である(ようは情報が階層を上がって伝達される際に抽象化=一般化されていく)というのは、階層システムの情報処理の特質でもある(それが一定の不確実性の吸収=排除という役割を担っているのではあるが)。 このようにして民主的過程は、知的な抽象に対する同意、不同意を決めるための過程である。 しかし、組織の有効性が依存している順応は、個々人の具体的行為に関係する。 個々人の行為の順応と個々人による抽象的提案の受容との間の区別は、よく知られているけれども、その重要性にもかかわらず無視されることが多い。 全員一致の同意があってさえ、行動が決定に順応していないことが目立って見られよう。 総論賛成各論反対、という言葉があるように、ある一般的抽象的な水準で合意がなされても、それが行動の次元で実現されるかどうかは問題がひそんでいるわけである。 抽象的な内容での合意が、行動レベルでの実現と食い違うのは、関与する人びとの悪意なり不作為という皮相的なものではなくて、ある意味で人間の本質にかかわることであるとバーナードは述べる。 抽象的な提案に対する過半数または多数の同意による決定と、具体的行動のほぼ完全な順応とは、もともと一致しないのである。 すべての一般的な決定は抽象的であり、未来にかかわっている。 それは必然的に未発現の細目についての評価を含んでいる。 さらに、一般的決定にかかわっている行動の巨大な集合は、細かい点までは人の理解と想像を超えている。 それゆえにこのジレンマは、意識的な社会的・知的提案と、現在の組織的行動および過去の社会的経験によって条件づけられた、諸個人の無意識的な生理的ないし生物的な性向との間の対立として記述されよう。 こうして人びとはしばしば、事実上その肉体的、精神的ないし情緒的能力を超えることの実行に同意することがある。 人びとは抽象的には望ましいものとして受入れたことが、現実のレベルでは望ましいものでもなく苦痛なものですらあることを後になって見いだす。 彼らは、自分たちが公式的に同意したことであるにもかかわらず、自分たちでも理由に気がつかないまま、不快である行動を拒否したり回避したりするのである。 The inconsistency between decision by majority or plurality consent to abstract propositions and approximately complete conformance of concrete behavior is inherent. All general decision is abstract and relates to the future. It necessarily involves an estimate of undisclosed details. Further, the enormous complex of action which is covered by a general decision is in detail beyond the comprehension and the imagination of men. Hence, this dilemma may be stated as the conflict between conscious socio-intellectual propositions of individuals conditioned by present organization action and by past social experience. Thus men often agree to do what in fact is beyond their physical, mental, or emotional capacities. They accept in the abstract as desirable that which they find in reality to be undesirable or even painful. They often refuse or avoid action that is repugnant to them without knowing why, though they have formally consented to it. ここで指摘されている、抽象的な決定と、具体的行動の差異の問題(ジレンマ)は、民主的過程に固有のものではない。 ガバナンスのシステムが一般にはらんでいる問題である。 では、この問題=ジレンマの民主的過程固有の特質は何か? バーナードは、その点について次のことを指摘する:• 1 具体的な諸条件との関連において、個々のリーダー、役人、経営者達の判断の位置の方がすぐれていること• 2 民主的決定の相対的に取り消し不能な性格 1 の方は、民主的過程が比較的に優れている点、 2 は劣っている点を指摘している。 1 に関連して、以下のようにいう: 責任ある個々人の決定は、主として情況感—抽象のレベル以下の無意識的な、非知性的な反応と習慣の要素を含む—に基づいてなされる。 経験豊かなリーダーは、経験ある医者と同じように、自分たちの判断のもっともな理由を明確に述べることが即座にできず、あるいは全然出来さえしないのに、しばしば諸事情を正しく「診断」できる。 Decisions of responsible individuals are made largely on the basis of a sense of the situation, involving elements of unconscious and non-intellectual reactions and habits below the level of abstractions. Experienced leaders, like experienced physicians, are frequently able to "diagnose" conditions correctly, though unable to quickly or even at all to formulate intelligible reasons for their judgments. 民主的過程の特質といえるのかどうか、微妙なところがあるのだが、少なくとも、その決定に関与する個々人の判断の質の問題であるということだろう。 2 に関しては、民主的決定は取り消しが難しいがゆえに、それが根本的な反作用を生み出すことを指摘する: 決定的なジレンマは、他と対立している具体的事象としての民主的決定は、すぐには取り消し困難であるという事実から生じてくる。 そのような対立を回避する普通の方法は、それゆえに、決定を無視することである。 したがって民主的過程には、不法を作り出し、かくして自らを破壊するにいたる根強い傾向が存するのである。 The crucial dilemmas arise from the fact that a democratic decision as a concrete event conflicting with others is difficult to reverse promptly. A common method of avoiding such conflicts is, therefore, to disregard the decision. Hence, there is a persistent tendency of the democratic process to create illegality and thus to destroy itself. タイムラグのジレンマ The Dilemma of Time-Lag 民主的過程による決定に存する3つのタイムラグを指摘する。 1 決定の必要性を認識するにあたっての遅れ delay in recognizing the need for decision• 2 その決定をなすのに必要な時間 time required in making it• 3 その決定を公布し、徹底させるのに必要な時間 time necessary for promulgating and inculcating it 基本的に、民主的過程は時間がかかるものである。 それゆえ、時として、民主的過程を回避することが必要になる: 民主的過程を回避することによって迅速な答えを得るために、まったく効果的な—しかし通常は違法な—技術が必要となることがよくある。 しかしながら、決定することの責任から、迅速な決定が行えないということもありうるとバーナードは指摘する。 このように、民主的過程は時間がかかる。 それが重大な影響を与える。 (民主的過程に時間がかかること)そこに含まれる不決断の要素は、協働における影響力のうち、もっとも破壊的なもののひとつであって、このことは十分に理解されていないように思われる事実である。 行動の効果的なタイミングがしばしば不可能であるばかりでなく、時間の遅れは、決定のしかるべき実行に必要な創意と熱意を弱めるのである。 The element of indecisiveness thereby involved is one of the most destructive of influences in cooperation, a fact that appears to be not well understood. Not only is the effective timing of action often impossible, but delay depresses the initiative and enthusiasm required for the proper execution of decisions. このタイムラグのジレンマを避けるには、民主的過程の回避や放棄しかないのである。 タイムラグは、民主的過程が内在的にはらむ問題で、避けえないものであることにバーナードは注意を喚起する: 選挙民のメンバーそれぞれが民主的過程の運営に対してどれほど有能であるとしても、あるいは民主的に機能している集団のリーダー達がいかに有能であるとしても、タイムラグは 民主的過程それ自体に内在的である。 このことは特記すべき重要な点であり、私にはこのことが、協働的効果をもつ他の諸意思決定システムに関するあらゆる事実のうちで、最も明白なことのように思われる。 On the other hand, no matter how competent may be the members of an electorate for the operation of the democratic process or the leaders of a group operating democratically, time-lag is inherent in the democratic process itself. This is the important point to note and seems to me to be the clearest of all facts regarding alternative systems of decision having cooperative effect. 政治的対立のジレンマ The Dilemma of Political Conflict 「民主的過程の4番目の一般的なジレンマで、ここで取り扱う最後のものは、それが政治的対立を引き起こして、組織を解体させるということである」。 民主的過程では議論が行われるのだが、そこでは様々な政治的な要因が入り込むことになるということである。 ここで注意すべき点は、人びとが不同意を表明するのが、なすべきこと、あるいはすべきでないことに関してではなく、むしろ 理由に関わっているということである。 人は、理由もなしに、「権威によって下された」決定に従うことがよくある。 「権威によって下された」決定というものに、「もっともなもの」として、あるいは実行可能なものとして、あるいはもっとよくあるのが何の考えもなし、それに従う。 なぜなら、彼らはその決定に責任をもたないからである。 もし彼ら自身が決定に関与しなければならないのであれば、僅差の過半数や多数である場合を除いて、「同意」することはないだろう。 これは単に他人の揚げ足取りだとか気ままな横暴といったものではない。 公式に設定された一般的決定は、計画されている具体的行動の象徴であるだけでない。 それはまた必然的に、意思決定に参加している人びとそれぞれにとっての行動の哲学を象徴しているのである。 哲学の相違は、物質的利害の相違以上に不和の重要な原因にもなりうるものである。 The point to be noted here is not that men disagree as to what should or should not be done but as to reasons. Thus they will often follow decisions "made by authority" without reasons, as "reasonable" and practicable, or more often without a thought, since they take no responsibility; but will be unable to "agree" except by narrow majorities or pluralities if they themselves have to participate in the decision. Nor is this merely captious or arbitrary. A formulated general decision is a symbol not only of projected concrete action. It also inevitably symbolizes a philosophy of action to each of those participating in the decision. It may be true that differences of philosophy are even more important sources of discord that differences of material interest. このような政治的対立(駆け引き、責任逃れ)は、討議を経て決定を行う場合には、不可避なものであるといえる。 ここまで述べてきた4つのジレンマは、何も民主的過程に固有とは限らないが、民主的過程は、こうしたジレンマから本質的に逃れられないものであるというのがバーナードの認識である。 そして、こうしたジレンマが実際の組織においてどのように解決されるかは、組織のリーダー次第であると述べる。 各過程に内在するジレンマのそれぞれの意義は、それが適用される諸条件と併せて、そしてまた、適切な組織リーダーの有無と併せて、評価されるべきである。 なぜなら、組織ジレンマを解決するのがリーダーの究極的機能だからである。 The relative significance of the dilemmas inherent in each process is to be appraised in conjunction with the conditions of its application; and also in conjunction with the availability of suitable organization leaders. For it is the final function of leaders to solve organization dilemmas. それゆえ、続いて、ある意味でこの論文の本題でもあるのだが、リーダーをめぐる問題へと論考は進んでいくのである。 リーダーのジレンマ The Dilemmas Of Leaders まず最初に、リーダーとはどんなものか、ということが確認される。 リーダーは、任命されたある地位に就いている人のことではなく、人びとの行動を実際にリードする人であることが確認される。 組織の機能している構成要素としてのリーダー達は、公式的に指名され、選抜され、選出され、任命されはしない。 彼らはリーダーたるべく生まれてくるのでもない。 彼らは受入れられ、従われるのである。 そして時に彼らは、指導することを押しつけられ、(稀に)強制される。 またリーダーは、歴史的にも論理的にも、公式的な組織決定のシステムに先行するものである。 リーダーはあらゆる統治システムの選択ないし採用にあたっての第一義的要因であった。 しかし、そのようなシステムは、ひとたび確立されると、それはリーダーの機能を条件づける要素となり、また、それを手段にしてそうした機能が遂行されることになる。 このことは、統御の地位が努力の調整—すべての統治システムでの共通要素である—に不可欠であるという事実、および、リーダーはそのような公式的な地位を通じて主として活動しなければならないという事実から生じてくる。 Leaders as functioning elements of organization are not formally nominated, selected, elected, or appointed, nor are they born to leadership; they are accepted and followed; and are sometimes pressed or rarely coerced into leading. Also leaders historically and logically precede all systems of formal organization decision. They have been primary factors in the selection or adoption of every system of governance; but once established, such a system becomes a conditioning element of the functions of leaders and also a means by which their functions are carried out. This arises from the facts that leaders must operate chiefly through such formal positions. このようなリーダー達は、本質的に二つの大きなジレンマに直面する:• 1 すでに述べたような、一般的なタイプのジレンマであって、リーダーが解決しなければならないもの those of the general types, already presented, which leaders have to solve• 2 リーダーの選抜と行動に、そして、その部下達のリーダーへの反応に直接影響するジレンマ those that directly affect the selection and behavior of leaders and the reactions of their followers to them 以下、具体的にリーダーが直面するジレンマを3つ取り上げて論じていくことになる。 その3つとは:• 有効的な行動と政策を伴う適切な目標 Appropriate aim with effective action and politics• リーダーシップと管理職位 Leadership and executive position• III. 有効的な行動と政策のジレンマ The Dilemma Of Effective Action and Politics リーダーが実際の行動において有効な決定を下すことの難しさがこのジレンマなのであるが、バーナードは、まず専制的なガバナンスのシステムにおけるリーダーのジレンマを解き明かすことから話を始める。 専制的な統治システムでは、すべてのリーダーないし執行者は、組織努力の 目的に最も適切な特定目標が、その達成に用いうる手段、つまり、その努力が利用される人間、とはある程度は調和しない、という事実に含まれるジレンマにたえず直面している。 なすべき選択は通常、理想的な目標を、諸個人—彼らの努力が目標を達成しなければならない—の能力、情緒、および意志に適合した目標にいくらか修正するように求め、そして同時に、訓練、教訓、実例および激励によって、諸個人をいくらか修正するように求めている。 こうして、そこには、まず、一方で受容可能な目標の範囲についての、他方では、努力を提供することになる人びとの能力と性質に関しての、二つの点に関する技術的性格をもつ判断の問題が存在する。 これらに関してあらかじめ判断した上で、リーダーは、正確な目標について、そして、有効な協働的努力の確保に必要な確たる指導、説得および誘因について、詳細に決定する。 これらの決定には、リーダーの側での、技術的状況と人的資源—その努力が利用される個人と集団—との双方についての、経験、集中力および技術に基づいた、深い知識と直観的理解が必要とされる。 In an autocratic system of governance every leader or executive is constantly confronted with the dilemma involved in the fact that a specific aim most appropriate to the purpose of organization effort is in some degree out of accord with the means available for its accomplishment, that is, the human beings whose efforts are to be utilized. The choice to be made usually requires some modification of the ideal aim to one adapted to the capacities, emotions, and wills of the individuals whose efforts must accomplish it; and simultaneously some modification of the latter by training, precept, example, and inspiration. Thus there are involved initially nice questions of judgment of a technical character as to the range of acceptable aims on one side, and on the other, concerning the capacities and dispositions of the persons whose efforts are involved. Taking into account these preliminary judgments, leaders reach decisions in detail as to precise aims and as to the definite instructions, persuasion, and inducements necessary foe effective cooperative effort. These decisions call for intimate knowledge and intuitive understanding based on experience, concentration, and skill on the part of the leader both as respects the technical situation and the human resources, that is, the individuals and groups whose efforts are to be utilized. ここで述べられている目標と人びととの不調和というジレンマは、民主的過程においても緩和されない(決定の過程の具体的な進行の仕方などは変わるにせよ)。 むしろ、多数の意見調整を行って決定していかなければならないという、更なる困難を抱え込むことになるのである。 それゆえ、民主的過程ではこのジレンマがトリレンマになるとバーナードは述べる: したがって、民主的過程は一般に、最初のジレンマにもうひとつのジレンマを付け加える。 それはリーダーにとってはトリレンマの創出である。 彼は、 a 技術的(外部的)情況に、 b 内部的な、作用している組織の状態に、 c 目標と手段についての、少なくとも過半数の抽象的で「民主的」な意見、そして通常は少数意見にも、同時に適用される具体的行動プログラムを求めなければならない。 後者は政治的要因である。 原則としてそれは、民主的過程から完全に除去しえないものである。 Decision as to one part of the problem is often made without attention to the other part, because the requisite intimate knowledge and concentration and sense of the situation are not available to the individual participants in the democratic process. That process therefore in general adds a second dilemma to the initial one. It creates for the leader a trilemma. He must seek a concrete program of action which is at once adapted a to the technical external situation; b to the internal operative organization condition; and c to at least the majority abstract "democratic" opinion, and usually also to the minority opinions, both as to aim and means. The latter is the political factor. In principle it is ineradicable from the democratic process. 多数の意見の調整という政治的要因が入り込むがゆえに、民主的過程を用いることを避けることになる場合が少なからずある。 政治的諸要因の好ましくない諸結果がほとんど回避しえないこと、民主的過程が理論的に利用できるはずの多くの情況が、このただ一つの理由で、民主的過程による解決を用いられないことは、よくある。 理由は明白である。 協働的努力というより原初的な要因に政治的要因が付加されると、リーダーシップの複雑性が大いに増大する。 これらの複雑性は、例示すれば、含まれる要因の数の3乗の割で増大するものとみなされよう。 それで、複雑さは、専制的方法にくらべて民主的過程のもとでは、およそ3倍の大きさになるといえるかもしれない。 つまり、バーナードは、具体的な行動の目標の決定に当っては、民主的過程は、専制的過程よりも困難を抱えている(リーダーに課するものが大きすぎる)と指摘するのである。 このことは、 普通の場合に十分である以上にリーダーの数が量的に多く、リーダーが質的にもより良質でない限りは、民主的過程は一般に、少なくとも短期間では、専制的過程よりもそれほど有効的でなく、また能率的でもないということを意味している。 このことを過小評価することは、民主主義の理想に対してひどい危害を加えることになるだろう。 This means that the democratic process in general will be less effective and less efficient, at least for short time periods, than autocratic processes unless the quantity of leaders is greater and their quality better than would be otherwise sufficient. It would be a great disservice to the ideal of democracy to underestimate this. パーソナリティと地位のジレンマ The Dilemma of Personality And Position これはリーダーにどんな人を就けるかということに関する困難である。 まず、効果的なリーダーシップが発揮される条件が確認される。 組織における効果的なリーダーシップは、一方ではふさわしい資質をもったリーダーに、他方ではリーダーが配置されるべき地位のシステムに依存する—コミュニケーションの地位における伝達者に依存する。 通常はコミュニケーションの、あるいは公的組織の2、3の仕組みのうち、限られたものがある時点で実行可能とみなせよう。 理想的な配置が不可能である以上、コミュニケーションの体制や地位の仕組み、あるいは任命(選抜)によって調整しなければならないのは、どのような統治システムであっても同様に直面する問題ではあるが、民主的過程では、このジレンマ(リーダーの最適配置が難しい)は、3つの源泉によって生まれてくるとバーナードは言う:• 1 地位の仕組みは相対的に固定的でなければならない the scheme of positions must be relatively rigid• 2 リーダーの選抜は、部分的には、組織化能力とは区別された意味での政治的能力に基づかねばならない the selection of leaders must be based in part upon political as distinguished from organization abilities• 拡散した責任のジレンマ The Dilemma of Diffused Responsibility 民主的過程では、リーダーは、自分が決定したのではないことに責任(や功績)を負う。 そのことがもたらす問題である。 民主的過程は、選挙民内での責任の拡散を伴うだけでなく、加えてリーダー達が他人の政策を実行すべきことをも求めている。 彼らは自分自身のものでない落度によって公に非難されている。 そして逆に、他人の功績が彼らのものとされている。 このため、部下に対するリーダーの影響力は、弱められている。 こうして、民主的過程は、リーダーおよび部下の独創力、熱意および自信を押さえつけ、そしてリーダーのインセンティブと彼らの個人的責任を大いに減少させる。 質量共に増加しなければならない、まさにその状態のもとで、リーダーシップの質は低下し、リーダーの数は限られている。 The democratic process involves not only a diffusion of responsibility within an electorate, but in addition it requires that leaders shall carry out policies of others. They are publicly blamed for faults not their own; and conversely, they are credited with false merits. Their influence with their followers is thereby weakened. Thus this process restricts the initiative, enthusiasm, and confidence of leaders and their followers and greatly reduces the incentives to leaders and their personal responsibility. The quality of leadership is reduced, and the quantity of leaders narrowed, under the very conditions which require that both should be increased. これゆえに、安易に民主的過程を拡大することへの警告を述べる: 民主的過程がわれわれの社会の公式に組織化された諸努力にもっと広く拡大されても—任命に関するかぎりで—、その時に必要とされるリーダーのずっと高い質とずっと多い量を確保できずに、その拡大は急速に崩壊するだろうと思う。 以上のように、バーナードは民主的過程というものが、リーダーにとってみれば様々な課題を課すものであることを指摘した上で、そのことを過小評価しないこと、そして民主的過程は優れているものではあるがどんな情況にも適用できるものでないことに注意を促すのである。 民主的過程のジレンマはリーダーの選抜や育成に影響を与え、あるいは部下をくじけさせ、そのために凝集性や調整を減じるので、それらを過小評価するのはひどく愚かなことである。 民主的過程におけるジレンマは、他の諸過程の同様のジレンマと比較して、決して致命的なものではなく、多くの情況において他の諸過程よりは優れているように思われる。 しかし、おそらく、多くの情況において、民主的過程という統治システムは不十分なものであって実質的に実行不可能であること、このことははっきりと認められるべきである。 統治システムの採用 The Adoption Of System Of Governance ここまで民主的過程を協働システムの統治(ガバナンス)システムという観点から論じてきたわけであるが、実際の組織において、どのように統治システムが決まるのかという問題をここで論じる。 バーナードは、実際の統治システムを決めるのは、協働の非公式過程の問題と位置づけるのである。 (統治システムの選択)これらの質問に対する答えは、協働の非公式的な過程—それらはすべての公式的諸過程の基礎になっている—に関連する。 答えは、リーダーとフォロワーとの共同の同調的行動によって、公式的システムが強化されるということである。 声無き「行動の民主主義」が、公私を問わず、すべての統治システムを決定する。 王が何を言うかではなく、いかに行為するかが、その臣民がなにを言うかではなく、なにを実行するかが、この問題を解決する。 What determines fundamentally the choices of methods of government in great and small organization? The answer to these questions refers to the informal processes of cooperation that underlie all formal processes. The answer is that the formal system is confirmed by the confirmatory behavior of leaders and followers jointly. A silent "democracy of behavior" determines all systems of government, public or private. Not what the King says but how he acts, not what his subjects say but what they do, determines this question. 人びとが能力と情況に応じて、ガバナンスを選択する。 それは民主的過程でないほうがよいこともある。 人びとのやろうという意思とやることのできる能力が問題を決定する。 彼らはある条件の下で民主的過程を用いることができるし、用いようとするだろう。 他の条件の下では、彼らは用いることができず、用いることを拒否するだろう。 複雑性があり、大きい危機が迫り、迅速な行動が必要な条件下では、例えば戦闘中などには、彼らがこれまで委員会に従ったり、リーダーを選挙で選んだりしようとはしなかったし、できるものでもなかった。 そして、いったん採用された統治システムは、それがリーダーとフォロアーの行動に破壊的な影響をもたらすことになったとしても、その事自体をその統治システムは公式的には認めない。 それが統治システムの根本的なジレンマであるとバーナードは述べる。 一度受容されたシステムが、リーダーとフォロアーの行動の相互適合を破壊する—それが非有効的な決定をしたり、あるいはリーダーシップを破壊し、フォロアーの仲をさいたりするという、いずれかの理由によって—ならば、その時には解体、分裂、反乱、あるいは新しいシステムへの順応などが、その結果として起こってくる。 しかしながらこのことは、専制的であれ民主的であれ、公的であれ私的であれ、いかなる公式的な政治体制も原則として明らかに認めることのできない教義—協働する人びとが普遍的に必要とするようにみえる正当性と合法性の感覚の破壊を伴うことなしには、認めることのできない教義—である。 これこそがすべての統治システムにとっての基本的ジレンマである。 This is a doctrine, however, that no formal government whether autocratic or democratic, public or private, can apparently admit in principle, without destruction of the sense of legality and legitimacy which cooperating men seem universally to require. This is the fundamental dilemma of all systems of governance. 民主主義の限界 Limitation Of Democracy 論文の締めくくりとして、民主主義の限界、利点、そこでのリーダーシップについてバーナードは述べる。 まず限界としては、以下のことを指摘する。 「参政権がさまざまに異なる人種、宗教、能力、利害の人びとに広められた場合、民主的過程は、国家にとってであれ小さい組織にとってであれ、非有効的であり、忠誠心を集めることができないようである。 「緊急を要するスピードの問題、高度に技術的な正確の問題、深遠な知的内容の問題、あるいは非常に複雑な意識的調整の問題などは、民主的過程からは—最も一般的な場合は別として—実際上除外されねばならない。 「かなりの抽象的思考能力、すなわち、読んで、書いて、しゃべるかなりの能力が必要である。 ……教育程度の大きな格差、知識と機能の詳細な専門化はこのましくない条件である。 」 このような限界から、民主的な決定が可能な領域は、必ずしも広くないといえる。 民主的過程の利点 Merits Of The Democratic Process 利点については、もし民主的過程がうまく作動するのであれば、どのようなメリットが生じるのかということをバーナードは述べる: 諸条件と欲求とが、民主的過程の働きを可能にしているところでは、また、それがこれらの諸条件に限定されているところでは、それは、特に全般的な統治の分野において、大きい優位性をもっていると私は思う。 …… これらの優位性とは、民主的過程が結局、……、より高度なふさわしいリーダーシップのいっそう大きな可能性を与えるということであり、そして、あまり混乱の可能性を伴わずに最高の地位への継承を可能にするということである。 …… さらにそれは、公然の同意によって組織の連帯を鼓舞し、参加感を増大させるために用いられる過程である。 …… 民主的過程にとって必要な行動、思想、原論の相対的自由は、より広い個人的責任感と、個人における独創性と適応性を発展させる。 これは、大きな組織危機に対処するに際して重要な、より大きい組織柔軟性と適応能力を可能にする。 民主的リーダーシップの質 The Qualities Of Democratic Leadership 民主的過程は、なによりその過程へのシステム的な信頼が必要であるが、リーダーもまた必要であり、そのリーダーには高い資質が求められるのである。 民主的システムへの信頼は、その利用になくてはならぬものであり、また、人の人に対する揺れ動く忠誠心にまさるものでなければならないけれども、それでもリーダーなしには民主主義も、いかなる統治システムも存続できない。 いかなるシステムにおいても、リードする人たちは、なすべきことを見極める能力と、それが部下によって実行されうる方法を見いだす能力をもっていなければならないし、それらの能力の組み合わせは部下によって受入れられなければならない。 しかし民主主義においては、真に一流のリーダーシップが必要とされる。 Although faith in the democratic system is essential to its use, and must be superior to the wavering loyalties of men to men, yet without leaders neither democracy nor any system of governance can survive. In any system those who lead must possess in some combination acceptable to their followers the capacities of discerning what ought to be done and of how it can be done by those who follow them. But in democracies a veritable aristocracy of leadership is required. 「民主的過程は、政府においてであれ、あるいはそれが使用されるかもしれない他の無数の組織においてであれ、リーダーに依存している」のであるが、この論文でバーナードが述べてきたように、そのリーダーに課せられるハードルは高い。 その困難に挑戦する人びとが多数生まれてくることへの期待を述べて、この論文は終わっている。 以上でこの論文は終わり。 1935年、ニュー・ジャージー州トレントンにおける失業者の騒動 Riot of The Unemployed at Trenton, N. , 1935 この論文について 第3章に収められているこの論文は、バーナードがニュー・ジャージー州救済局長官を努めていた時に体験した失業者団体との交渉を、記述し分析を加えたものである。 ローレンス・J・ヘンダーソンがハーバード大学で開講していた「具体社会学」の授業における実例報告の一つとして、バーナードが行った報告を収録したものになっている。 社会学の授業で、みずからの体験を振り返りながら、社会学的な自己分析を行って見せる(バーナードは臨床的という表現をもちいている)というものであることから、この論文は単なるバーナードの体験の記録にはなっていない。 記録されている出来事において起こったことを分析するという点では、具体的な状況での相互行為をどのように捉えるべきかという、バーナードの相互行為論(具体的状況下での行為論)が展開されているが、さらにはそうした分析自体がどのような意義をもつものかという点も論じているという、二段構えの議論が為されている。 そこで、ここでは、具体的なバーナードの活動の記録ではなく、バーナード自身の分析に焦点を絞ってみていくことにするが、論文の検討の前に、若干の予備知識の確認を行っておく。 というのも、ここでバーナードが分析に用いるのはパレートが The Mind and Society (『社会学大綱』)のなかで展開した、人間の非合理的行動に関する概念的枠組なのである。 バーナードは論文の注で最低限の補足的説明は行っているが、あらかじめ簡単にその枠組を紹介しておく(パレートの正確な解説ではなく、あくまでもバーナードを読むための予備知識として整理したものである)。 簡単に言うと、大半の人間の行動は非論理的なものである。 そうした行動は、残基 residue と呼ばれる心的状態(本能、動機)によって駆り立てられるものである。 残基とは人間の基本的欲求といってもいいだろう。 さらに、人間の場合は、そうした非論理的な動機を、合理化して表現し、そちらを本当の動機であるかのように語って論理的行動のようにみなしたがる。 残基を合理化した理論のことを派生 derivation という。 つまり、人間は、自分の行動を説明したり意識したりする場合は、ある種の論理的説明である派生を理由としてもってくるが、本当はその背後にある非論理的な残基が行動を駆り立てている、とするのである。 つまり、人間ってのは、自分の行動を合理化したがるんだが、本当はそんなに合理的には行動してない、ということだ。 パレートは、こうした人間の残基を6つに分類している。 バーナードが注で説明しているものを載せておく:• 結合を求める本能 Instinct for Combinations これは、事物を統合したいとする欲望、発明、探究を求める欲望に関連するが、巧妙な事物の新結合をそのねらいとする。• 集団の持続 Group Persistence これは一旦仲間に入ったり、結合したりした事物を一緒に保持したいとする選好、すなわち、保守的感情に関連する• III. 社交本能と結びつく残基 Residues connected with Sociality• 個人とその付属物との統一性 Integrity of the Individual and his appurtenances• 性の残基 The Sex Residue 社会学のテキストなどでは、III 「感情の外的表現」、IV 「社会性の感情」(社会を作り、人びとと同じように行動し、他人から認められたいという欲求)、V 「生命と財産の安全」となっている。 このパレートの概念的枠組をバーナードは用いるわけである。 ここで、われわれは、バーナードが常に個人の行動の具体的行動は、非論理的な側面あり、それが重要であること、さらには組織における非公式組織や道徳的側面を重視したということとの繋がり(一貫性)に気がつくだろう。 いずれにせよ、具体的行動の場面では、そこで語られている内容よりも、語っている行動によって表現されていること(コンテンツではなく、パフォーマティブな側面)が重要であることや、具体的な行動の場面では理知的な判断や知識が直接役に立たない局面があるといった、お馴染のバーナード的な行動論、人間論が、展開されているのがこの論文である。 主動的参加者と自己分析 バーナードは、具体的な事例に入る前の部分で、過去の自己の行動の記述は自己合理化でしかないと断言する。 つまり、先のパレートの図式で言うところの派生であることに注意をうながす: およそ記述というものは、少なくともその分析的部分においては、必然的にまったくの合理化 rationalization だということである。 私は、あなたがたに、状況をあれこれ診断したとか、かくかく意図したとか、こんな具合あんな具合に反応したとか、あれこれの結果を生み出したとか、他の人びとはあれこれと影響を受けた、とかと語るであろう。 これらはすべて、出来事の後で私が作り上げたことである。 行動の最中には、合理化を行う時間など私はほとんど持っていなかった。 私の行為も、そしてまた他の人びとの行為も、共に、必然的に反応的であり、直観的、感情的であった。 このことは、多数のしかもほとんど瞬時的な決定の必要性が、短期間内に参加者に課せられるような社会的状況においては、いつでも、あるいは、ほとんどいつでもあることだと私は信じている。 It is that necessarily the description, in its analytical portions at least, is pure rationalization. I shall tell you that I diagnosed the situation in this or that way, that I intended this or that, that I reacted in this or that way, that I produced this or that effect, the others were affected in this or that way, etc. This is all concocted by me after the events When the action was taking place I had almost no time for rational processes. Both my action and that of others was necessarily responsive, intuitive, emotional. I believe this is always, or nearly always, so in social situations in which the necessity of numerous and almost instantaneous decisions is imposed on the participants within a short period of time. 実際に現場で行動する際には、予備的な知識等は、直観的な形でしか関与しないものであるとも述べる。 皆さんに注意を促しておきたいのだが、知的活動によって獲得された知識とか、知的もしくは論理的思考過程とか、それらのいずれもが行為には何ら関与しなかった、と私が言いたいのでは必ずしも無い。 それは逆なのであって、確かに私自身の事例では、事実、多くの知識と、多くの容易ならざる思考がその出来事に先行していた。 それにもかかわらず、行為のその時点においては、それは直観的な仕方でのみ(慎重でも意識的でもなく)使用されていたに過ぎないし、使用することが出来たであろう。 さて、バーナードが救済局長官として向き合うことになった出来事というのは、失業者(救済措置の対象者)たちとの会見であった。 その会見の第1回は、代表者たちとの話し合いの会場の外には、失業者たちが集まっているという、ある種の緊迫状態の中で行われたのであるが、それを振り返りながら、バーナードは社会的緊迫状態について、次のように分析している: 私は社会的緊迫状態を次のようなものとして定義したい。 すなわち、その社会状況での個人の関心が、事件の発生によって影響を受けるために、彼らの将来の個人的地位の不確実性に専ら注がれるような状態である。 恐らくその主観的効果は、個人的立場からする戦略をば行動の支配要因とすることであって、その結果、交渉主題に関しては、知的にも情緒的にも共に正常な行動を歪めることになる。 その最も明白な効果としては、通常は、対立する集団内部の結束が増加し、集団間の疎遠さが拡大されることであるように思う。 社会的緊迫状態では、まずは緊張的対立感を和らげることが最優先になること、そのために自分がとった行動(相手よりも少ない人数で会見に臨む)が述べられていく。 この第1回目の会見は、会場の外にいた集団の騒乱によって中断されることになった。 その騒乱に関連して、バーナードは、その騒乱自体が、自己表現のひとつのあり方なのだと分析している。 まず、「行為欲求(表現的行為の欲求)」の重要性を言う: 一般的性格をもった観察がひとつだけ必要である。 それは集団の動機にかかわるものである。 これは、私の意見では、主として行為の、すなわち何かをするという動機である。 皆さんはパレートの残基の一つが、「感情を表現するための行為の欲求」と題されていたのを想起するであろう。 私は、この「行為欲求」に対して、パレートの場合によりもずっと主要な位置を与えている。 私見によれば、それは可変的だが、ほとんど普遍的な人間の必要性であって、実務家、社会科学者のどちらからも十分注目されていないものである。 It call for only one observation of general character not already made. This concerns the motive of the crowd. You will recall that one of Pareto's classes of residues is entitled: "the need of action to express sentiments. " To this "need for action" I give a much more important place than Pareto. It is, I think, an almost universal though variable necessity of human beings, and one that is inadequately noticed both by men of affairs and by social scientists. そのうえで、集団の騒乱を、通常の日常的な行為の機会が奪われた人の、表現的行為なのだと分析する: ところで、有益であるか、または、理に適った行為のための機会を見出すことの難しさは、想像力の乏しい人間同士にとっては特に大変なものであるから、慣習的な行動の道筋が崩壊することは、彼らにとっては深刻な制約というか、むしろ刑罰ですらある。 1つの階級としての失業者は特にこのような事情に苦しめられている。 集団会見に臨んだり、われわれの話し合いの場に集まったり、歌を唄うことは、他のいかなるものにもまして「何かをする」欲求の結果なのである。 「よそもの」の扇動者たちが活動していたことは疑いもないが、その時の群衆の行動は、状況も結果も危険なものであったにもかかわらず、根元的な人間欲求の純真無垢な表現であった。 Now the difficulties of finding opportunities for useful or legitimate action are substantial, especially among unimaginative persons, so that a breakdown of habitual channels of activities is a serious restriction or penalty to them. The unemployed as a class suffer especially from this. Attending a mass meeting, congregating at the place of our conference, singing songs, were more than all else a result of the need of "doing something. " Although certain "foreign" agitators were undoubtedly at work, the behavior of the crowd was an innocent expression of a fundamental human need, notwithstanding that the conditions and the results were dangerous. 2回目の会見で、バーナードは代表者たちの意見にじっくりと耳を傾けたうえで、自分の立場と見解を述べて、合意にいたるのであるが(具体的な記述は本を読んで欲しい)、その過程を分析して、代表者たちの根本的な欲求を自己表現と認知だったと述べている: これらの人びとが望んでいるのは、自己表現と認知のための機会であった。 彼らの組織は、人びとに一つの機会を与えたし、われわれの話し合いは他のもうひとつの機会を与えたのである。 だが、もしそこでの苦情は取るに足らないものだとして相手にしなかったとすれば、彼ら自身や家族のための多少の食糧よりもこれら人間存在にとって本当にもっとも重要な機会を、破壊してしまうことになったであろう。 皆さん方にとって重要なことは、それを意識しているときですら、人は最も欲しいものが何であるかをしばしば語ることができない、ということを知ることである。 「たとえ腹がへっても、私は一人の人間として、市民として、この社会の一員として、認められたいと心から願っているのだ」とは、私に対してはおろか、お互い同士にも、彼らはいえなかったのである。 そういうこと自体が自尊心を傷つけることになるだろうし、空しいことでもあるだろう。 他の無数の事例でも同様だが、この事例においても、彼らが欲しもしないものについて人びとは語り戦うのだが、それは彼らが何かを語らなければいられないからであり、彼らが口に出すことを信じていると自らに納得させようとさえするからである。 What these men wanted was opportunity for self-expression and recognition. Their organization gave them one opportunity, our conference another. To have dismissed the grievances as trivial, however, would have been to destroy the opportunity that was literally more important to these personalities than more or less food for themselves or families. It is important for you to know that men often cannot talk about what they most want even when they are conscious of it. They could not say either to me or even to each other "I am starving to be recognized as a man, as a citizen, as a part of the community. " To do so would itself destroy self-respect and would be futile as well. In this case, as in countless others, men talk and fight about what they do not want, because they must talk about something, and they even convince themselves that they believe what they say. 失業者の救済措置に関する会見であるのだから、表面的には、経済的な事項が話し合われるわけであるが、その根底には、彼らの自己表現と認知という問題であったというのが、バーナードの総括なのである。 つまり、救済措置にかんする不満を述べるという「派生」の下に、自己認知という「残基」が働いている、という分析になる。 総括 自分の体験をこのように自己分析してみせたバーナードは、総括として4つのことに注意を促している。 まず一つ目は、パレートの残基の分類における「個人とその付属物との統一性」(全一性の欲求)の重要性である。 この分析を完結するために、最終的に二三の観察を試みよう。 その第一は、パレートによる残基の諸種類の重要性の順序にかかわるものである。 皆さんが想起されるように、パレートは6つの種類の残基を提示したが、使ったのは最初の二つ、すなわち結合本能と集団持続であり、それらはほとんど専ら一般的社会システムを彼が論ずる際においてであった。 私が提示した事例において、みなさんが気づかれたように、私自身の行為は、人格的全一性(パレートの第Vの種類)がその状況の下での主要な感情であるという診断に基づいたものである。 これらの小規模かつ具体的な社会状況の下では、行為欲求、つまり社交性本能か、もしくは、人的全一性本能のいずれか、特に後者が主要なものであり、他の感情は第二次的なものであると私は言いたい。 続いて、経済的事情や利害関係は、それほど重要ではない、というバーナードが様々な箇所で展開している議論が登場する(『経営者の役割』でも随所に見られたものであり、『経営者の哲学』の論文などではっきりと述べていることではある)。 ここではパレートの術語を用いて、経済的事項、さらには言語化された事柄自体が、派生、つまり事後的な自己合理化でしかないし、その点を見誤っているのが問題であると述べられている。 第二の観察は、経済事情ないし利害は、提案した事例においては、無視できるほどのものであった、ということである。 勿論、それがまったく無かったわけではない。 私がこれまで観察してきた数知れない多くの事例において、社会的相互作用の主要問題が経済的なものである時でさえ—例えば事業取り引きにおけるように—、その行動が主として表明するのは、非経済的感情である。 そこで使われている言語はその大部分が経済的性格のものなので、このことがはっきりしないのである。 購買者や従業員の行動は、一般的には、経済的関心の表明を伴う。 しかしながら、非常にしばしばこれらの関心はまったく従属的でしかも無視することさえ可能である。 このことは、表面には現れないであろうし、ある種の経済取り引きないし結果は、そこに含まれる社会的相互作用の最も目に見える効果であるという事実のために、このことが隠されてしまうのである。 これがしばしば状況を専ら経済問題として解釈することに結びつく。 ところが、具体的行動を支配するのは、行動欲求、結合に対する愛好、人的全一性を創り上げたいという欲望(威信、地位の欲望)なのである。 現時点において軋轢や社会的不協和音の大部分が生ずるのは、事業とか産業、そして政治的状況において行動を支配するのはほとんど専ら経済的関心であるという錯覚に起因するように、私には見えるのである。 3番目が、具体的状況下での行動の非理知的な側面の重要性: 再度私が注目したいのは、本例での行動が、本質的に感情的、反応的、直観的、非論理的な性格を、そして比較的に非理知的な性格をもつことである。 話の順序、声の調子、強調の仕方、中断の頃合いと間のとり方、顔の表情、身振り、沈黙などの非合理的要因は、具体的状況では不可欠な諸局面であるが、それらは、当の行為者にとってはまったく無自覚的なものであり、他の参加者たちによって観察、というよりもむしろ 感じ取られるものである。 これはすべて具体的ではあるが、あまりにも迅速に入り組んでいるので、よしんば参加者がそのような複雑な現象の分析には堪能であっても、それどころか、その目的のために受容可能な科学が存在したとしても、もっとも未だにその例を見ないが、分析は可能ではないのである。 このことは大抵の社会状況では典型的なものである。 Such non-rational factors as the order of speaking, the tone of voice, the emphasis, the time and manner of interruptions, the facial expressions, the gestures, the silences, which are essential aspects of the concrete situation, are quite unconscious to the actor and are felt rather than observed by other participants. This is all concrete and too rapid and interlocking to permit analysis even if the participants were competent to analyze such complex phenomena, or even if there were an acceptable science for the purpose, which is not yet the case. This is typical of most social situations. ここでバーナードは具体的行動の分析を行った科学が存在しないし、分析は不可能だろうと述べているが、現在のわれわれからすれば、たとえばゴフマンの社会学なりエスノメソドロジーや会話分析などで、こうした部分にメスが入っているじゃないかと言うことができるだろう(またアメリカ流の徹底したプレゼン・演技メソッド)。 バーナードは、非理知的、分析不可能なものというカテゴライズを安易にしすぎるようにも感じられる。 最後に、診断というものが漸進的で暫定的なものであるということを述べて、この論文は終わる: 具体的状況での診断のもつ必然的に漸進的な性格……。 予備的診断は高々暫定的なものであるに過ぎない。 人びとはそのような診断をして、いわば治療を開始し、その後の徴候や前兆での反応を観察するが、それによって、診断は確認されたり、変更ないし破棄されたりするのである。 行動それ自体に先行して確固たる診断を採用することが出来るのは比較的稀であって、言ってみれば、外見的に類似する数多くの状況からの一般化が可能な場合のみである。 経験を積んだ人たちのほとんどが、彼自らの行動を、自分自身に対してでさえ前もって診断したり処方したりしないのは、このためである( 例によって例の如き状況での議論目的にとって望ましい場合は別である)。 そうすることは、社会的行為の性質を誤って理解する証拠を与えることになるのである。 社会的行為は、大抵の場合必然的に非論理的であるので、事例が多数ならば疑いもなくある種の一様性や確立に従うとしても、特定の具体的な事例において通常予想できないのは、まさにこの理由のためである。 the necessarily progressive character of diagnosis in such situation... A preliminary diagnosis could at best be provisional. Making such a diagnosis, one starts treatment, as it were, and observes reactions in further symptoms and signs, which confirm, modify, or destroy the diagnosis. It is comparatively rare, and then only when one can generalize from a number of apparently similar situations, that a firm diagnosis can be adopted prior to the action itself. This is why most men of experience will not formulate a diagnosis or prescribe their own action in advance, even to themselves except when desirable for purposes of argument in another situation. To do so, is to give evidence of misunderstanding of the nature of social action. It is necessarily non-logical in most instances and is for this reason usually unpredictable in the specific case, although undoubtedly subject to some uniformities and probabilities in a large number of cases. 以上で、この論文は終わり。 リーダーシップの本質 The Nature of Leadership この論文では、リーダーシップの本質についての考察が展開され、最後にはリーダーの育成に関するバーナードの所見が述べられている。 『経営者の役割』17章で述べられていたリーダーシップ論をさらに展開した論文だといえる。 序文(Introduction) リーダーシップに関する議論の問題点を指摘し、バーナードがこの論文で何を論じようとしているのかが述べられている。 リーダーシップという主題については、これまで無意味な独断論が余りに多く語られてきた。 とにもかくにも、私がみたところでは、この主題に関しては、皮相的な側面やキャッチフレーズを誇大視して基本命題に祭り上げ、応用が利かないところまで一般化し、誤解を招くといったことを避けることが困難なように思われる。 このような過ちを回避するために私は、リーダーシップとは何かについて、あるいはリーダーシップがあるのかないのかをどのように判断するのかといったことを話すことはしないつもりである。 というのも、私はそのすべを知らないからである。 実際、あえていえば誰も知らないと思う。 このように言えば、奇妙にも言い過ぎにも聞こえるかもしれないが、私はあなたがたに、それがみせかけの謙虚さや浅薄な判断の表れではないということを信じて頂きたい。 とにかく私が論じようと思うのは、 リーダーシップの本質を理解するという問題である。 Leadership has been the subject of an extraordinary amount of dogmatically stated nonsense. At any rate, I have found it difficult not to magnify superficial aspects and catch-phrases of the subject to the status of fundamental propositions, generalized beyond all possibility of useful application, and fostering misunderstanding. Seeking to avoid such errors, I shall not tell you what leadership is or even how to determine when it is present; for I do not know how to do so. Indeed, I shall venture to assert that probably no one else knows. These statements may seem strange and extreme, but I hope to convince you that they are not expressions of false modesty or of ill-considered judgment. At any rate, what I intend to discuss is the problem of understanding the nature of leadership. バーナードは、リーダーシップについて人々が誤っている例として、自分がリーダーシップの教育的育成に関する会議に参加した際の体験を述べている。 この集会において私が目のあたりにした観察事実というのは、講演者と聴衆の双方が リーダーシップを 卓越性 preeminence あるいは きわだった有益性 extraordinary usefulness と混同しているということであった。 「リードする」という動詞の二つの意味(「人より抜きんでている」という意味と、「人を先導する」という意味)を混同しているケースが少なからずあり、それが協働や組織の達成の妨げになっているとバーナードは指摘する。 さらにもうひとつとして、技術者が技術者ではない人に管理・監督されることへの異議申し立てをとりあげ、リーダーシップという能力についての誤解があることを指摘している。 このように、リーダーシップについての適切な定式化がなされていないことを指摘するが、しかし、実際の経験のレベルでは、共通の了解や感覚があること、ただしそれは経験や知識を分かち合った人のあいだでしか共有されていないものであり、定式化できないものであることを述べている。 以上からわれわれは、より適切なリーダーシップについての一般的な誤解と誤報、それにその準備に対する要求が相まって、リーダーシップの本質を理解する努力が切実に望まれているということに合意できよう。 こうした目的に貢献するために私はここでいま主として、この主題についての現状でのあいまいさ、およびそこに関連している諸機能・諸条件の複雑さを明瞭にすることを試みるべきだと考える。 I think we may agree, then, that public misunderstanding and misinformation, and the need for provision of more adequate leadership, both urge our effort to understand the nature of leadership. My present attempt to contribute to this end ought chiefly, I think, to make evident the present obscurity of the subject and the complexity of the functions and conditions involved in it. これがその第一義である。 しかしながら、組織化された努力は、しばしば資産ないしはプラントを含む協働体系のなかで発生する。 このようなときには整合された諸活動は資産ないしプラントと関係をもつか、ないしは結合され、両者は別々のものではない。 したがってこのような資産の管理ないし行政は、人員に対する指令ないし監督とは区別されて、リーダーシップの第二の側面として含まれる。 ここで述べられている2つの側面は、『経営者の役割』の中で、リーダーシップの技術的側面と道徳的側面が分けられていたのに対応する。 その相互依存性を強調すべく疑似数学的な言語でリーダーシップを再定義すれば、すなわちリーダーシップとは少なくとも三つの複合変数—個人、追随者の集団、および諸状況—の関数であるように思われる。 このようにリーダーシップが依存する3つの変数を指摘するのではある。 しかし、条件の組み合わせが無限にありうること、相互関連性についての十分な了解が必要であることを述べた上で、このような理論的な図式ではなく、日常的なレベルでの考察を展開すると述べる。 I リーダーシップ行動の四局面においてリーダーが行わなければならない事柄に関する一般的な記述、 II リーダーシップの諸状況間のいくつかの差異に関する考察、 III リーダーの積極的な個人特性に関するいくつかの見解、 IV リーダー育成の問題に関する若干の知見、および V リーダーの選考に関する観察。 それぞれの項目について、考察がなされることになる。 I リーダーシップ行動の四局面(Four Sectors of Leadership Behavior) ここではバーナードは、リーダーが何をしているのかについて、4つのトピックを取り上げて論じていく。 目標の決定 The Determination of Objectives• 手段の操作 The Manipulation of Means• 行為の道具性の統制 The Control of the Instrumentality of Action• 整合された行為の鼓舞 The Stimulation of Coordinated Action これらは別々に論じられるが、互いに「密接に相互連関し、相互依存し、さらにしばしば重複的ないしは同時進行的であること」に注意を促す。 このような言表は一見してリーダーの 存在理由について多くの人々が考えていることを言い尽くしてしまっているかのように思われる。 しかしもしその人々が実際の仕事に密着して観察することができれば、リーダーが他人に命令する事柄の多くは、リーダーがリードしているまさにその人たちによってリーダーに提案された事柄であるということに気づき、困惑するであろう。 An obvious function of a leader is to know and say what to do, what not to do, where to go, and when to stop, with reference to the general purpose or objective of the undertaking in which he is engaged. But if they are able to observe the operations closely, it often disconcerts them to note that many things a leader tells others to do were suggested to him by very people he leads. このように、リーダーがリードするために行う活動とは、自分の考えを周りに押しつけることではないことを指摘する。 バーナードの言葉を拾っておくと: リーダーは馬鹿になって多くのことを聞かなければならないし、秩序を保つために調停を行わなければならないことも確かだし、さらには単なる情報中枢にもならなければならない。 もしリーダーが自分の考えしか用いないのであれば、彼は極めて高い水準のリーダーである優秀な指揮者というよりは、ワンマン・オーケストラのようなものである。 ただし、それでも人々をリードする(=人々がついていく)必要があるところに、リーダーの困難がある。 その困難をいかにこなすかについては、バーナードもうまく説明できないとしながらも、次のような指摘を行う: 信用できるのは誰だかを知ること、正しい提言を受入れること、適切な時機と時勢を見分けることに関連があるように思われる。 そのうえで、全体として理解することの重要性を説く。 何をいつすべきであるかを説明するには、ある目的、意図、あるいは成果との関連において非常に多くの事柄を「全体として」、すなわち「すべてを考慮に入れて」理解することが要求される。 —このような理解によって、 特定の具体的状況のもとで何が重要で何が重要でないかの区別、なされうることとなされえないことの区別、おそらく成功するであろうこととそうでないことの区別、協働を弱めることと増大させることの区別が、効果的に行えるようになるのである。 しかし、専門技術の才能を伴わないリーダーシップは例外的になってきているとバーナードは指摘する。 ただし、リーダーが、作業の技術的な側面に関して知識や経験をもっていることを過大評価してはならないとしたうえで、次のように言う: リーダーシップに含まれる専門技術的および工学技術的な諸要因は、非常に重要な変数であるだけでなく、重大な難題を持ち込むことにもなる。 とりわけ述べておかなければならないことは、 1 さまざまな型のリーダーの育成、 2 技術上の諸要因が組織ないし社会のなかでリーダーの「移動性」に課す諸制約、および 3 技術的な研究および経験によって個人の 一般的ないしは「社会的」な発達に加わる制限的効果に関するものである。 The technical and technological factors in leadership not only constitute a variable of great importance, but they introduce serious difficulties, which should be mentioned, especially in respect to 1 the development of types of leaders, and to 2 the limitations these technical factors place upon the "mobility" of the leaders in an organization or society, and also 3 because of the restrictive effect of technical study and experience on the general or "social" development of individuals. それぞれの問題点についてバーナードは次のように述べる。 まず 1 については、将来リーダーシップを発揮するべき人は、高度に専門化された中の特定の技術や職に就くことからキャリアを始めることになるがゆえに、「狭い範囲の活動に関してだけリーダーシップ訓練を受けることになる」。 そして、そのことが 2 の問題、つまり「一つの狭小な分野でだけ優秀なリーダーは他の分野ないしはより一般的な仕事ではつぶしがきかなくなるため、リーダーシップ資源の移動性は深刻に低下する」という問題、いわゆる専門馬鹿になってしまう問題につながるわけである。 さらに 3 の問題、これはバーナード自身によって専門分化が個人に与える影響と言い換えられている問題なのだが、それについては、以下のように言う: 人々が技法、機械、作業過程、それに抽象的知識に注意を集中している間に、 彼らは必然的に人間、機械、社会的状況といった、まさにリーダーシップ能力が適用されるべき特有の領域にかかわる、経験からかなりの程度、それることになる。 したがって、きわめて感性豊かな時期に没人間的資源や過程に対してもつ「機械的な」態度が根付いてしまうので、このような態度を遅かれ早かれ人間に対しても向けるようになってしまう。 While men are concentrating upon techniques, machines, processes, and abstract knowledge, they are necessarily diverted to a considerable extent from experience with men, organizations, and the social situations, the distinctive fields of application of leadership ability. Thus at the most impressionable period they become so well grounded in "mechanical" attitudes toward non-human resources and processes that they transfer these attitudes, then and later, toward men also. ああ、そうですか、としか言いようがない意見ではあるが、いかにも人間主義者バーナードらしい意見ではある(コンピュータ・オタクを非難する言葉みたいだ)。 また、専門分化が特定の視点しか取れないような人間を生み出す危険があるという話として一般化すれば、先ほどの専門馬鹿の問題につながることは確認できる。 それはさておき、専門技術・知識の習得の問題については、以下のように総括する: 工学技術および専門分化を通じてわれわれは多くのことを達成してきた。 しかしその結果としてリーダーシップ機能を複雑化し、総合的リーダーの育成と供給に制限を加えてしまったことは、われわれの時代の重要問題かと思われる。 長くなるが、バーナード自身の言葉を読んでもらうのがよいだろう。 リーダーシップには人々のある特定の努力を整合する局面があることは明白である。 リーダーシップなしには整合ないしは協働はほとんど成立せず、したがってリーダーシップは協働を含意する。 整合された努力が組織を成立させる。 組織とはリーダーの立場からみるかぎり行為の道具性であり、それは絶対不可欠の道具性である。 前途有望な人々の多くがこのことについていつまでも気づこうとしない。 それというのも、構造、技法、それに抽象的な制度、それも特に会社法のような法律的制度を若いうちに重視してしまうからである。 Leadership obviously relates to the coordination of certain efforts of people. There is little coordination or cooperation without leadership, and leadership implies cooperation. Coordinated efforts constitute organization. An organization is the instrumentality of action so far as leaders are concerned, and it is the indispensable instrumentality. Many promising men never comprehend this because of early emphasis upon plants, structures, techniques, and abstract institutions, especially legal institutions such as the law of corporations. 道具性(Instrumentality)というのはなじみのない言葉かもしれないが、手段、媒介、助けとなるものという意味の言葉である。 道具性という言葉が入ることで、かえって分かりにくくなっている思うのだが、ここで述べられていることは、組織という道具(人々の協働が調整されて生まれるもの)をリーダーは維持しなければならないということであり、それは目的達成とは異なる組織維持のための様々な働きを担わなければならないということである。 バーナードの言葉を拾っておく: リーダーがまず努力しなければならないのは、活動の総合体系としての組織の維持と先導である。 私はこのことがリーダーシップ行動の最も示差的で特徴的なことであると思われるが、それにもかかわらずほとんど認められていないし、理解されてもいない。 組織を構成しているもろもろの行為の大半は外見的に組織の維持とは何ら関係がない特殊機能—例えば、組織の特定課業を達成すること—を担っているがために、組織の維持と先導といったような行為が同時に組織を構成しているということや、技術的でもなく道具的でもないこうした行為こそが、リーダーシップの観点からすれば非常に重要である、ということを見過ごさせているのかもしれない。 したがってリーダーは組織を行為の道具性を維持するような仕方で全員を先導していかなければならない。 The primary efforts of leaders need to be directed to the maintenance and guidance of organizations as whole systems of activities. I believe this to be the most distinctive and characteristic sector of leadership behavior, but it is the least obvious and least understood. Thus the leader has to guide all in such a way as to preserve organization as the instrumentality of action. 組織の諸行為には、目的達成という側面と同時に、組織の維持という側面があり、リーダーはこの側面をきちんと担っていくことで、組織という一つのシステムを存立させ維持しなければならないということである。 組織が共通目的を実現するための一つのシステムとしてあることを、共通目的を達成する一つの道具としてのまとまりあるモノということで、バーナードは道具性という言葉を持ち出してきていると考えることができるだろう。 続けてバーナードは、リーダーたちは、組織に関して、直観的な理解しかなされてこなかったということを指摘している(だからこそ、バーナードが『経営者の役割』を出したわけである)。 行為は組織の外に潜在しており、潜在性を行為の実体に変えることがリーダーの課業の一つである。 言い換えれば、リーダーが行う重要なことの一つは人々がその可能性を整合された努力に変えるように誘発し、そのことによって組織を維持しながら同時にその仕事をやり遂げるように仕向けることである。 この種のリーダーの活動がときとして彼らが行うことの最も顕著な側面であるということは、改めて言うまでもない。 広い意味でこれは説得に関する事柄である。 さらに経営者が整合された活動へと「説得する」のに用いる行為や行動の種類が数限りない、ということも改めて言う必要がないであろう。 A potential act lies outside organization, and it is one task of leaders to change potentiality into the stuff of action. In other words, one important kind of thing that leaders do is to induce people to convert abilities into coordinated effort, thereby maintaining an organization while simultaneously getting its work done. I need hardly say that this kind of activity of leaders is sometimes the most striking aspect of what they do. In a broad sense this is the business of persuasion. Nor need I say that the sorts of acts or behavior by which executives "persuade" to coordinated action are innumerable. 以上で4局面についての考察が終わる。 この節の締めくくりとして、バーナードは「私が主に言いたかったことは、この四局面がいかに相互連関し、相互依存しているかを指摘し、特に『リーダーシップ』が意味する内容のばらつきが、要求される行動の種類間の相対的重要性いかんでいかに大きくなるかを、示唆することであった」と述べている。 II リーダーシップの諸状況 The Conditions of Leadership ここではリーダーのおかれている状況によって、要求される行動と資質が異なることが考察される。 状況が安定的であれば、自己抑制、慎重さ、技法的な洗練性が要求されるが、不安定な状況下では道徳的な勇気、決断力、創意、イニシアティブ、ずぶとさが要求されることになる。 こうした両極端な場合の検討の後、バーナードは以下のように述べる: 諸状況に関する差異、すなわち緊張に関する差異がリーダーシップ行動の重要な要因であるということを十分の示唆している。 両方の極端に等しく適応できる人間は滅多に見つからないこと、そしてそれだからこそまったく異なるタイプのリーダーが期待されるということは、だれにも明白であろう。 しかしどんな種類の協働努力にも緊急事態がつきものであり、したがってリーダーは広範囲の諸状況にわたって適応できなければならない。 ここで明白なことは、おそらくはそれはリーダーシップ行動の諸局面を考察した際にそうであったのと同じように、特定のリーダーを選考する場合の実践上の問題とは、諸状況あるいは諸状況のばらつきにおそらく最も適応しそうな 資質のバランスを確定することであると思われる。 III リーダーの能動的な資質 The Active Qualities of Leaders リーダーシップを論じる際はリーダーの個人的な資質以外の要因も大きく作用することを、この論文の冒頭でバーナードは述べたが、ここではあえて個人的な資質・特質を5つ、ごく一般的な目的の観点から重要だと思われる順(つまりバーナードが重要だと思う順番ではない)に取り上げて論じている。 以下の5つである(原文ではローマ数字で通し番号がつくのだが、節の番号と区別するため、ここでは数字で番号をふっておく)。 バイタリティと忍耐力 Vitality and Endurance• 決断力 Decisiveness• 説得力 Persuasiveness• 責任感 Responsibility• リーダーシップに必要な個人的能力を育むような知識や経験のたゆまぬ獲得を可能にする• 説得力に大きく貢献する個人的な魅力や迫力の一要素となる• 決定を行う能力は、もっとも特筆すべきリーダーの特性であると思われる。 それは決定を下す性向あるいは積極性、それにその力量に依存している。 リーダーシップは現実に適切な決定を要求し、それも保証されたものだけを要求するのである。 I regard decision as the element of critical importance in all leadership, and I believe that all formal organization depends upon it. Ability to make decision is the characteristic of leaders I think most to be noted. It depends upon a propensity or willingness to decide and a capacity to do so. Leadership requires making actual appropriate decisions and only such as are warranted. 決断力には積極面と消極面の両面から考察される必要があるとバーナードはいう。 積極面:正しい事柄を正しい時期に遂行させ、過ちを防止するために決定が必要• ある特定の具体的状況のもとで個人が道徳に照らして実行しなければならないと感じていることを行いえない場合、あるいは道徳に照らして実行してはならないと考えていることを実行してしまう場合に、個人が激しい不安感を抱くことになるような情動的条件を、私は責任感と定義しよう。 このような不満感を個人は避けようとするであろう。 I shall define responsibility as an emotional condition that gives an individual a sense of acute dissatisfaction because of failure to do what he feels he is morally bound to do or because of doing what he thinks he is morally bound not to do, in particular concrete situations. Such dissatisfaction he will avoid. ここでの責任感(責任)の定義は、『経営者の役割』での定義と同じであり、個人がもっている道徳=行動準則を守ろうとする強さが責任である。 責任自体は個人的な資質のレベルで定義されているが、その必要性は社会的なレベルでの関係の安定性にある。 バーナードは言う: もし人に「責任感があり」、何が正しいかについての彼の信念ないし感覚が判明しているのであれば、彼の行動はおおよそ期待できる。 行動のこの安定性がリーダーシップにとっていくつかの観点から重要であることは難なく理解できるであろう。 しかしそれは追随者たちの観点からみてとりわけ重要なことである。 気まぐれで責任感のないリーダーシップが成功することは滅多にない。 His behavior, if he is "responsible" and if his belief or sense of what is right are known, can be approximately relied upon. That this stability of behavior is important to leadership from several points of view will be recognized without difficulty; but it is especially so from that of those who follow. Capricious and irresponsible leadership is rarely successful. まず知的能力を5番目に位置づけたということ(他の4つに対して副次的)、そしてリーダー達が自分の知的能力に必要以上の誇りを抱いているということを指摘したうえで、非知的能力の重要性に関する長い補論を展開するのである。 後者のそれは、私に言わせれば、概して非知的過程にしか関連していない。 しかし、もっと大きなポイントとして、われわれの行動の意識のあり方が関係することを指摘する。 われわれが一番強く意識している行動の領域が少なくとも概して知的なものであって、それにひきかえ、活力、決断力、それに責任感などを反映しているわれわれの最も効果的な行動の大半は、現に自然で、無意識的で、条件反射的であり、また効果的であるために概してそうでなければならない。 The part of behavior of which we are most conscious is at least largely intellectual, whereas much of our most effective behavior, such as reflects vitality, decisiveness, and responsibility, is largely matter-of-course, unconscious, responsive, and on the whole has to be so to be effective. さらに、リーダーは自分の実際の行動において最も効果的な能力はどれなのかに気づいていないと指摘する。 自分を観察することは難しいからだ。 その実例として、バーナードはコミュニケーションの場面を取り上げている。 コミュニケーションの場面における伝達行為(話し方、身振り手振りなど)の重要性に着目し、伝達内容の論理性・正確性よりも、伝達行為の適切性のほうが効果的な伝達を行えるが、それは知的な能力とのかかわりが深くない。 「われわれは誰でもよく知っているように、……、文章の論理的な意味を理解する能力には限界があり、話す時の話し方から理解するのである」。 優秀なリーダーはこのことが分かっている: 他人と一緒に行動するには、どうすればよいかを論理的な説明で教えようとしても遅々としてはかどらず、せいぜい限られた効果しか上がらないであろう。 私の考えるところ、この理由のゆえにこそ優秀なリーダー達は追随者たちに、 どのように行動すべきかについての指示をほとんど出さないかわりに、何がなし遂げられなければならないかを指示し、 のちほど成し遂げるにあたってのやり方をしかるべく批判するという事実が広く観察されることになるのである。 それにひきかえ、劣悪なリーダーは、他人にいわば人生をいかに生きるべきかを訓示しようとし、しばしば失敗するのである。 To teach by logical exposition how to behave with other people is a slow process of limited effectiveness at best. This is why I think it will be widely observed that good leaders seldom undertake to tell followers how to behave, though they tell what should be done, and will properly criticize the manner of its doing afterward. Whereas inferior leaders often fail by trying, as it were, to tell others how to live their lives. この部分の議論は、リーダーシップに関する議論であると同時に、協働におけるコミュニケーションのあり方の議論にもなっている。 つまり、手取り足取りきっちりと指示するのではなく、まず相手に主体的に行動してもらうようにする(行動内容については、まずは信頼し任せる)ことが重要ということにもなる。 それはともかくとして、知的な指示(情報)が人を動かすのではないというバーナードの道徳的リーダーシップ観がはっきりと出ている箇所である。 補論では、続いて「知識人の限界 The Limitations of Intellectuals 」が述べられる。 そこでは、知的でありながらリーダーシップに関しては無責任で、決断力がなく、説得力もない人間がいること、知的な能力が他の能力の不足を補うことは滅多にないことなどが指摘される。 他人を説得するには、人が支配されている非合理的な要素を十分に考慮に入れておかなければならない(って、それができるのは知的能力では?というツッコミを入れたくなるぐらいに知的・合理的態度を批判するバーナードである)。 そして責任というものについて: 責任とは道徳的ないし情動的な一条件である。 Responsibility is a moral or emotional condition. このことが観察されるとバーナードは言う。 つづいて、今度は「知的能力の重要性 The Importance of Intellectual Capacities 」が述べられる。 そこでは、リーダーの微分的要因(differential factor 、つまり他の能力等が等しいなら知的能力が重要であるには違いないという。 「しかしながら、ここで大いに強調しておきたい主要な点とは、知的有能性は、リーダーシップにとって本質的な他の資質の少なくとも大部分に、取って代れ ないということである」と言い、知的能力よりも重要な資質があることを強調するのである。 補論は、「誇張された知性主義のいくつかの影響 Some Effects of Exaggerated Intellectualism 」へと進む。 ここで、バーナードが他の人を反感をかうような知的主義への批判を述べてきた二つの理由が語られる。 第一の理由は、知的資質の過度の強調が、リーダーの供給の妨げになっているということである。 これはリーダーになるべき人だけの問題ではなく、周りの人間もリーダーは知的能力が高いのが当然だと思うことによって、知的な資質が低ければ「たとえ非凡なリーダーであっても追随することを潔しとしないことが多い」。 このように過度に知的資質を持ち上げることが「リーダーシップという仕事に取り組もうとする人々の意欲をそぎ、彼らが効果を発揮するのを抑制する」のである。 第二の理由として、バーナードは、知識人気取りの風潮が労働争議の大きな原因になっているという指摘を行う。 「高学歴者の間には労働者の知性やその他の重要な個人的資質を見下げる性向がみられる」といった態度によって「人為的な利害の分割、共感的理解の消失が招来されているのであって、そのとき協働は崩壊し、単なる「いくばくかの好意」ではもはや修正できなくなる」。 能力の差異があることをバーナードは否定するのではないが、その差異が差別的に働くことを嫌うわけである。 「知的優越性とは目障りなものであり、知識でさえも、 自発的に敬意を払う場合を除けば、他人のそれを認めるのを嫌うものである」。 補論の最後のパートとして「リーダーシップの資質に関するわれわれの無知 Our Ignorance of The Qualities of Leadership 」をバーナードは論じる。 まず最初に、資質というものに関しては、一般的な漠然とした理解は可能であっても、正確で的確な定義や記述が難しいことが述べられる。 「ここで強調すべき重要なこととは、科学においても日常の実践においても、たとえ特殊な目的に合わせたものであったとしても、いまのところ漠然と描写されているこれらの資質については何らかの程度の了解が、まだ成立していないということである」。 例としてバーナードは決断力を取り上げる。 様々な場面で決定を下さなければならないこと、「決定を下すことが経営者の主要な機能の一つであるということをわれわれは知っている」。 しかし、学問的にも注目されておらず(ただし、これは当時のバーナードから見ての意見)、「会社の中でも、私は、決定能力に照らして人が評価されるのを、明らかに決定能力がなかったために失敗した場合を除いて、ほとんど耳にしない」。 このように、決定力という資質に関しては、しばしば口にされはするものの、正確な理解や議論はなされないままになっているとバーナードは言う。 補論の最後に、リーダーシップに関してよく言われる資質、「正直、品性 honesty, character」、「勇気 courage 」、「イニシアチブ initiative 」を議論から外した理由が述べられる。 バーナードは、これらの資質については、すでに述べた5つの資質の組み合わせやそこから生まれるものとして理解できるという。 さらに、理解がまちまちであることを指摘する: それらを付け足してもよいのであるが、私のみるところでは、それらの言葉の意味は単に個人次第でまちまちなだけでなく、行為者、リーダー、あるいは他者のいずれかによって解釈される 状況というもの次第でまちまちであって、しかもその解釈はさまざまの観察者が下す解釈と食い違うことが多い。 そして、補論の締めくくりとして、次のように述べる: いずれにせよ重要なことは、リーダーシップの資質は、どのように識別され、どのように名付けられようと、相互に作用しあい、相互に依存しあっているということである。 化合物の構成要素を整理するようにはいかないが、しかし資質の組み合わせを違えればまったく違った種類のリーダーが生み出され、また資質とそれらの組み合わせは経験と状況に応じて変化するということは、仮定してもよいであろう。 In any case, the important point is that the qualifications of leadership, however discriminated and however named, are interacting and interdependent. We do not assemble them as we would the ingredients of a compound, yet we may suppose that different combinations of qualities produce quite different kinds of leaders, and that the qualities and their combinations change with experience and with conditions. IV リーダーの育成 The Development of Leaders このセクションでは、リーダーの育成に関するバーナードの私見が述べられる。 育成に関して、以下の項目が論じられる。 訓練 Training• バランスとパースペクティブ Balance and Perspective• 経験 Experience なお、ここでも先ほど同様に、論文では項目名はローマ数字の通し番号になっているのだが、アラビア数字の番号に置きかえることにする。 よく知っておかなければならないのは、知的準備がそれ自体、リーダーシップに不可欠の諸性向を抑制する傾向をもつということである。 例えば、抽象的な事実についての研究や熟考は決断力を助長せず、むしろ逆の効果をもつことがしばしば起きるように思われる。 そして、知的訓練によって抽象的事実あるいは言表可能な事実のみに目を奪われてしまい、「『見当違いの具体性の誤謬』、すなわち事実 fact と事物 thing との混同、 一側面 an aspect と記述不可能な全体(an indescribable whole との混同、あるいは既知と未知との相互依存関係の無視」などが起きてしまうと警告する。 それに続けて: ほんの少し立ち止まって考えてみれば、……、知的な訓練と経験が不可欠な職業についている人々の人目を引く努力の多くが、知性ではなくて、技能の表現、すなわち具体的なものの無限の複雑性への適切な適応を成し遂げるための効果的行動の表現、であることが判明する。 じじつわれわれはあらゆる職業の実践において、直感とまではいわないにしても、経験を強調することによって、この点を繰り返し告白しているのである。 このように、バーナードは抽象的な知識(記号化/情報化された知識)=事実(fact)と、複雑な物事自体の世界=事物(thing)の取り違え、なにより前者による後者の隠ぺいに注意を促すのである(なにやらカントの実践理性の議論みたいだが)。 事物の無視が有害な結果を招くものとして、労使関係(組織内の上下関係)を取り上げて、次のようにも言っている。 To lead requires to feel them as embodying a thousand emotions and relationships with others and with the physical environment, of which for the most part we can have no knowledge. 学歴やそれのよるステータスが差別的に働いていることによって、知的資質以外の資質が軽視されてきていることに、ここでもバーナードは批判するのである。 それゆえ、 現在においては、リーダーシップに関連した意味でのバランス、パースペクティブ、および均整 proportion が体得されるのは、ほとんどもっぱらリードするにあたっての責任者としての経験からであると思われる。 有意義な経験について、バーナードは次のように言う: 有意義な経験は、概して、さまざまな状況のもとで自分自身を適応させることによって、さらには行為の変化の中で適切なものが何かについての感覚を覚えることによって、確保される。 Significant experience is secured largely by adapting one's self to varieties of conditions and by acquiring the sense of the appropriate in variations of action. さらに、専門化が進んだ結果、「人々はリーダーシップについて総合的な経験を積む機会を限られてしまっている」という問題を指摘する。 そうした状況でのリーダーシップの技法について経験を積む機会として、バーナードは「課外」活動 "extracurricular" activities を通じてインフォーマルな経験を積むことを挙げている: リーダーをフォーマルな方法で養成するすべがほとんど知られていないとしても、潜在的リーダーが自分自身を錬磨し、リーダーシップが必要とされる場合や機会を自分自身で開拓し、自分自身をリーダーとして迎え入れられるように作り上げる方法を学習し、そのようなことを実行することによってリードする経験を体得するよう、奨励することはできる。 とはいえ、ただ奨励すればよいというものではない。 リーダーとしての経験として学ぶつもりのない者に奨励しても駄目であると釘を刺す: しかし、この点に関して何をするにしても、もし 機会を認識し手中に収めるという経験、あるいは誰の助けも求めず、干渉や障害にめげないで自分自身の立場を築き上げるという経験が何にもかえがたいものであるということを十分に知ったうえでなければ、かえって有害になるように思われる。 But I believe whatever we do in this respect will be harmful if not done in full realization that there is no substitute for the experience of recognizing and seizing opportunities, or for making one's own place unaided and against interference and obstacles. V 選考 Selection ここまでの議論を振り返り、バーナードは、リーダーというものが、フォーマルな準備ではなく、様々な条件や状況、経験によって盲目的に生まれてくるものであるといってもよいこと、それゆえに選考によってリーダーを選ぶということの重要性をまず確認する。 その上で、リーダーシップが適切かどうかのテストは、「われわれの抱く理想との関連で達成される協働の程度、またはその欠如である」と述べる。 さらに、ある者がリーダーとして選ばれるということには、公式と非公式の両方の権威によって行われること、そして非公式の権威によって行われる選考(リーダーとして認め受入れること)が重要であるであると述べる: あらゆる公式組織における選考が公式と非公式の二つの権威によって同時に行われるということは述べておかねばならない。 公式な権威によって行われるそれを任命(あるいは解任)と呼び、非公式な権威によるそれを容認(あるいは拒否)と呼ぶことにしよう。 この二つの権威のうちで、非公式な権威こそが基本的で支配的なものである。 それは追随者たちの追随する意志と能力に根拠をもち、そうしたものから成り立っている。 It should be stated that in all formal organizations selection is made simultaneously by two authorities, the formal and the informal. That which is made by formal authority we may call appointment or dismiss , that by the informal authority we may call acceptance or rejection. Of the two, the informal authority is fundamental and controlling. It lies in or consists of the willingness and ability of followers to follow. いうまでもなく、ここで述べられているのは、『経営者の役割』の権威受容説のリーダーシップ版である。 人々がリーダーとして受入れるからこそ、彼はリーダーとしてリーダーシップを発揮できるのである。 追随者が追随する意欲を持つからこそ、彼に人々は従うのである。 このリーダー受容説にも、人々が実際に協働的に行為してこそ組織があるというバーナードの組織観がはっきりとあらわれている。 多くの組織においては、リーダーは公式的に任命されて地位につく。 公式的な権威の維持こそが組織の秩序を保つと考える人も多いだろう。 しかし、追随者が追随しないようなリーダーはリーダーではない。 「公式の権威の本質がなんであれ、最終的には非公式な権威が決定的でなければならない」。 もちろん、通常は、責任ある立場の人間が公式的に任命したリーダーで問題は起きないことが多い。 そのような場合、「追随者たちは。 リーダーによって影響を受け、先導されなければならないが、同時にリーダーを作り上げるのである」。 このように非公式的な権威の重要性を確認したうえで、公式的なリーダーの選考に関してバーナードは論を進める。 そこでは、リーダーシップの資質に関するわれわれの理解不足が問題を引き起こしている。 リーダーの選考が、本質的に失敗の可能性から逃れられないことを指摘する: すでに述べたようにリーダーシップが個人、追随者、および諸状況に依存しているのであれば、当初の選考の誤りに起因するとはいえない多くの失敗が起きざるをえない。 それというのも、人間、追随者、および諸状況のすべてが変化するからである。 われわれはこのことを忘れて選考を非難しがちである。 そのうえで、リーダーの更迭(解任)の問題の複雑さを論じている。 状況に合わなくなったり能力が衰えたリーダーは交代する(交代させる)必要がある。 しかし、「優秀なリーダーであることを証明した人たちは組織の精神を体現し人格化していて、彼らの追随者たちの志望 aspiration を代表しているから」、不用意な解任は組織に混乱を引き起こすことになる。 それゆえ、 このような事情から、あらゆる種類の組織において、特定のリーダーが能力のピークを過ぎ、時には不適切になってしまった後でも、関係者一同の利益を考えてリーダーの地位にとどめておかれることになると、私は理解している。 こうしたことが、えこひいきから出ているときには弁解の余地はない。 しかし、補助的リーダー達による能力不足の補給を包含した リーダーシップを組織化する過程の一部であるとすれば、弁護されなければなるまい。 In all types of organizations I believe this often means retaining a leader in the interest of everyone concerned after he has passed the peak of his capacities and sometimes even when the latter have become inadequate. When this is a matter of favoritism there can be no good defense; but when it is a part of the process of organizing leadership involving the supplementing of incapacities by auxiliary leaders, it must be defended. ここにジレンマがあることを指摘して、この節の議論は終わる。 結論 Conclusion ここまでの議論を通して、「われわれの知識の限界の程度と、限界を克服することの重要性」を強調してきたとバーナードは総括する。 そのうえで、リーダーについて次のように語って、この論文を終える。 リーダーの仕事の本質からして、彼は現実主義者でなければならず、たとえ結果が予測できなくても行為に出ることの必要性を認識すべきである。 しかしまた、彼は理想主義者でもなければならず、後に続く世代のリーダーによってしか達成されないような最も広い意味での目的を追求しなければならない。 多くのリーダーが自分の権力が頂点に達したとき、すでに先は見えている。 それでも自分自身が到達することはないであろう究極点へ向って道を押し進む。 企業においても教育機関においても、政府においても、宗教団体においても、言葉には表せない、そして昨今のわれわれの奇妙にゆがんだ態度のせいでしばしば否認される、こうした動機に支配された人たちを再三再四見かける。 それでも「老人は植樹する」。 明日のために今日を無視することは確かに感傷主義の反映であり、信用がおけない。 しかし、われわれがいま活用できる思考と意志力の余力を駆って、未来のために現在を形作るのは、われわれがいま現に達成している社会的凝集力の基礎にある理想主義の表れにほかならないと思われる。 そしてこの理想主義がなければ、われわれは自分たちの生活、制度、あるいは文化に何のしかるべき意味も見出せないであろう。 It is in the nature of a leader's work that he should be a realist and should recognize the need for action, even when the outcome cannot be foreseen, but also that he should be idealist and in the broadest sense pursue goals some of which can only be attained in a succeeding generation of leaders. Many leaders when they reach the apex of their powers have not long to go, and they pass onward by paths the ends of which they will not themselves reach. In business, in education, in government, in religion, again and again, I see men who, I am sure, are dominated by this motive, though unexpressed, and by some queer twist of our present attitudes often disavowed. Yet, "Old men plant trees. " To neglect today for tomorrow surely reflect a treacherous sentimentalism; but to shape the present for the future by the surplus of thought and purpose which we now can muster seems the very expression of the idealism which underlies such social coherence as we presently achieve, and without this idealism we see no worthy meaning in our lives, our institutions, or our culture. 以上でこの論文は終わる。 組織の概念 Concepts of Organization この論文では、バーナードの組織の概念について、あらためて自身が重要な点を論じるものとなっている。 ただし、論文が焦点をあてているのは、一つは貢献/貢献者という概念の妥当性であり、それを顧客を貢献者として論じることで展開する。 後半では、自身の組織概念の概念の性格を論じた、言うなればバーナードの科学観を展開したものとなっている。 したがって、私は、組織とは人々の集団で構成されるとする概念を拒否した。 つまり、ある明示的な目標や目標群に関してその行動が調整されている人々のある程度限定されている人々の集団から構成されているものが組織だとする概念を私は拒否したのである。 そして、それと反対に、出資者、供給者、それに得意先や顧客の活動を、組織の中に含ませたのである。 したがって、組織の質料は個人的貢献活動、すなわち組織の目的に対して貢献しようとする活動である。 The conception of organization at which I arrived in writing The Functions of the Executive was that of an integrated aggregate of actions and interactions having a continuity in time. Thus I rejected the concept of organization as comprising a rather definite group of people whose behavior is coordinated with reference to some explicit goal or goals. On the contrary, I included in organization the actions of inventers, suppliers, and customers or clients. Thus the material of organization is personal services, i. , actions contributing to its purposes. まず最初に、組織は活動・相互作用からなりたつものであって、人の集合ではないことが確認される。 そして、組織の要素(ここではマテリアルという表現をしているが)は貢献であるとする基本的な考えが述べられている。 この点について明確に説明することにしたい。 そのことを、 I 顧客が行う購買の行為は売り手の組織の一部であることを示すこと、 II 使用者ー従業員の関係の用語に特定して述べられた誘因の経済は、等しく売り手ー買い手の関係にも適用されることを論ずること、のように2段階にわけて行うことにしよう。 通常、顧客は組織の外部の存在とみなされるが、貢献のシステムとして組織を考えるならば、顧客も貢献者になる。 そこで、バーナードは、顧客が貢献者であること、顧客への働きかけは従業員への働きかけと同じ誘因の経済であることを論じようとする。 二人またはそれ以上の個人の行為が協働的である場合、すなわちシステム的に調整されている場合には、その行為は、私の定義によれば、組織を構成する。 そのような行為はすべて、その機能によって決定されている二つまたはそれ以上のシステムに、同時に所属している構成要素である。 したがって、組織のあらゆる行為は、またある個人の行為であって、組織に対する彼の貢献である。 二つまたはそれ以上の組織のシステムにおいて、一人の人間が行う協働行為が持つこのような同時的な作用が機能することによって、相互のあいだに結合がもたらされ、その結果として複合組織となる。 When the acts of two or more individuals are cooperative, that is, systematically coordinated, the acts by my definition constitute an organization. Every such act is a component simultaneously of two or more systems as determined by its functions. Thus every act of organization is also an act of some individual and is his contribution to the organization. This simultaneous functioning of the cooperative act of an individual in two or more organization systems provides the interconnection which results in complex organizations. ここで述べられていることで注目するべきことは、一つの行為が個人にも組織にも(複数の組織にも)同時に帰属するという点である。 このことを逆の面から見れば、人間の特定の行為について理解するには、その 行為が部分として機能しているすべての組織について知らなければ、完全とは言えないだろうということである。 もしこの言い方が「抽象的」で「非現実的」に響くとすれば、このように言おう:人々の「観点」を理解するということは、すなわち人間の行動を支配しているすべての「影響力」を知ることを意味するが、それができなくては、人間の取扱いを有効に行うことはできない、と。 これを言うのは易しい。 しかしそれを、あるがままのものよりも単純化して論ずる 概念がなければ、実際にはほとんど 理解することができない。 これが、すぐれた概念的枠組みの偉大な機能なのである。 それは無限の複雑さを持つものを、意識的にかつ有効に論ずることを可能ならしめる。 To put the matter in reverse, you could not completely understand a specific act of human being without knowing all the organizations in which act functioned as a part. If this sounds "abstract" and "unrealistic," let me put it this way: you cannot deal effectively with people unless you can get their "point of view," which means knowing what "influences" govern their behavior. This is easily said but really almost impossible to comprehend without a conception which treats it as simpler than it is. This is the great function of a good conceptual scheme. It makes it possible to deal consciously and effectively with infinit complexity. 人間の行為というものが、同時的に多くの組織と関わりをもつこと、そうした行為の広範な関連のありかたを捉えて論じていくためには、適切な概念が必要なこと、そしてここで直接には述べていないが、貢献のシステムとしての組織という概念がそうした概念であることが論じられる。 貢献のシステムして組織をとらえることで、組織が広範な人々の相互行為の網の目の中になりたつものであることが捉えられるのだ、と言っていると考えてよい。 メンバーで捉えることは、そのメンバーの行為だけしか捉えられないだけでなく、そのメンバーの行為が他の組織に関わっていることも見えなくなるのだ、ということになるだろう。 帰属や影響の重層性をつかむための視点を貢献者という切り口が与えてくれるわけである。 組織の中の最も単純なものには、A、B二人の間の財の交換がある。 ……、多くの場合、交換は協働であるとは考えにくいであろう。 しかし、ちょっと考えてみればわかるように、両当事者の行為は相互に依存しあっており、相互関連的であるから、交換は、 取り引きを成立させる 合意、すなわち双方の行為の調整、に基づいているのである。 この特殊なケースのはかない線香花火のような性格に惑わされてはならない。 ……、そのような協働によって交換されるものの間の関係の総体は経済学の主題であり、そしてまた、そのような行為の総体は、少なくとも部分的には、安定した単位組織および複合組織を構成しており、協働についての研究の主題なのである。 財の交換も協働として捉える。 これによって、以下のように、顧客も貢献者として明確に把握されることになる。 究極的分析という意味からいえば、組織は協働 行為の合成体である。 そのような行為の集合体のある種のものは、名前の付けられた組織として取扱い、種々の仕方で分類すると便利である。 特定の組織をそれとして確認すること、そしてそれらを分析的に分類すること、これらは意図されている目的あるいは便益ー通常、その組織は(表向き)何をする組織か、その組織の最も安定的な貢献者は誰か、ということーに応じて行われるものである。 組織を弁別し、名前をつける際に、何かの特性に強調をおくあまり、ある種の協働行為が除外されるようなことになってはならない。 百貨店は従業員の集団であり、物的な設備であり、商品の溜まりであると考えることもできようが、それでもやはり、顧客の協働行為があるために、それは 店であり続けるのである。 お客があってこその店なのだから、顧客も店の貢献者なのである。 両者の関係の本質は交換である。 いずれの場合においても、経済的な財が含まれる。 そして、いずれの場合においても、経済的な交換に 認められるもの以外に、色々な誘因がある。 細かな議論は省略するが、誘因の経済とは必ずしも物的・経済的な財に限ったものではないこと、そしてそのような誘因の経済は、顧客との関係にも適用できることが示される。 そして、以下のように、顧客は貢献者であることが述べられる。 私は、顧客の扱い方が従業員のそれと類似していると言っているのではない。 私の用いている組織の定義では協働行為の本質は両者において同一である、と言っているのである。 そして、そのような行為を引き出すのに必要な行動の本質もまた、経験によって示されるように、同一である、と言っているのである。 私は、ずっと以前からこれを確信している。 「俗な言葉」で言えば、「従業員」と呼ぼうと「顧客」と呼ぼうと、人間の本性は人間の本性なのだ、ということである。 相違しているものと見られていたものが同じものであることが明らかにされ、そして、それらを取り扱うプロセスが違うものだと多くの場合に思われていたのに、やはり同じものであることが確証されるならば、それは知性の力における偉大な進歩である。 そのことが、ここで、私の定義した組織の概念によって達成されているのである。 そして、この概念は認識される事実に基づいているのである。 Note that we are not here dealing in analogies. I do not say that the treatment of customers is analogous to that of employees. I say that the nature of the cooperative acts is the same in both cases under the definition of organization I am using; and that the nature of the behavior required to elicit such acts is the same, as shown by experience. I have long believed this. The "horse sense" way of saying it is that human nature is human nature whether you call it "employee" or "customer. It is a very great gain in intellectual control when it can be established that things regarded as different are similar, and that the processes of dealing with them often regarded as different are likewise similar. Here it is accomplished by the concept of organization as I have defined it, and this concept is grounded in recognized facts. (強調は田中) 顧客と従業員を同じに捉えることを妨げているのは、何を誘因とするかという内容の差異に囚われていることであり、誘因が本質において行為を調整するものだということ、調整こそが重要だと点に立てば両者が同じであることが見えてくるとバーナードは言う。 第2節 組織と管理の分析のための概念装置(Conceptual Equipment for the Analysis of Organization and Management) この節では、バーナードの組織の概念が、どのような概念なのかということ、つまりバーナードにとって科学的に論じることとはどのようなことなのか、という議論が展開される。 バーナードの科学論、『経営者の役割』における概念の狙い、それが語られる。 組織概念そのもの展開ではないが、バーナードがあえて貢献のシステムという概念を用いることの意義を語った部分なので、バーナードの言葉を整理して引用しておくことにする。 そのような言語を「論議水準(levels of discourse)」と呼ぶことにしよう。 これもまた狭い限界を持つ。 それは、いかになすべきかについて個人にはほとんどなにも教えない。 それは、具体的行動のためには不備であり、不十分である。 しかし、それは理解力を大きく拡げ、統制の可能性を拡大し、錯覚を正し、それによって、実際の操作の時に、錯覚から生ずる過誤を回避することを可能ならしめる。 また同じように重要なことは、それが、下位の論議水準で使えるような適当な概念と用語と、そしてものごとを見る方法とを提供することであり、それによって、他の場合にくらべて、実際的経験のはるかに広い分析と、有能な人々の間のより大きな協力を推進するのである。 むしろ反対に、経営、政治、教育における大規模な作業を要する大きな問題を考えてみた場合に、社会的協働についての健全な一般化を達成する困難なプロセスに対して大勢の人ができる限り貢献するということこそ実践的な意味で重要である、と私は信ずる。 われわれにはなお、管理専門職の訓練のための適切な理論的基礎を打ち立てる必要がある。 重要な理論は、一般的な利害と関心についての、より広範な問題を包含している。 優れた理論は、一般に事実に適合しており、自己整合的であり、重要な新事実の発見に有用性を持つことが証明され、広く受入れられる可能性を持ち、事実と知識と観念を能率よく精確に伝達することに役立つものである。 何となれば、理論は近似的に事実に適合しているに相違ないけれども、新事実を発見してそれをそのときに考慮に入れなければならなくなる可能性を持つだけでなく、われわれが事実だと考えていることを修正することもあり、それらによって、理論は事実を変化させるように働くからである。 したがって、事実のあらゆる言明は抽象である。 それは出来事のある側面だけを指し示しているに過ぎない。 事実の言明が言及している物事や出来事の観測された側面は現象と呼ばれる。 したがって、事実とは、ある物事や出来事の観測された側面である現象についての観念、すなわち心の中に思い描かれたもの、の言明である。 そのような観念はまた概念として知られている。 この一般的な事実は、類似した多くの事実の総体である。 この事実は、精巧な理論あるいは理論群の助けをかりて、通常の個々に観測可能な諸事実から構成されている。 それは証拠によって確証された事実であり、その正当性はある理論によって決定されているのである。 これらのことは、主に管理者に関する種類の事実である。 彼はしばしば、事実を具体的なものだと信じたがる。 「事実は事実だ」というわけである。 一般化は真理であると信ずれば信ずるほど、事実はますます「現実」であり、ますます「具体」であるように見えてくるものなのである。 そういう概念は、説明を与えるための一環として、すなわち理論を作るための一環として、恣意的ではないにしても経験とは無関係に、いわばまったくのフィクションから作り出されている。 もしその理論が有効に働くものであれば、換言すれば、その理論が特殊および一般の事実を充分に説明するものであれば、それらは優れた概念であると考えられよう。 そうした概念が真か偽かという問題は往々にして意味を持たない。 そしていくつかの最も有用なものについて、その真偽を証明することは絶対にできないと明言できるのである。 それらが果たす役割は観念と事実を組織することである。 このことこそ、私が『経営者の役割』の中で「概念」あるいは「概念的構成体」ということによって表そうとしたことの意味である。 There are ideas or concepts which are not facts in the sense that they can be directly inferred from evidence of observation and theory, but which are products of general knowledge, theories, experience, the sense of things, imagination. They are constructed out of whole cloth, as it were, though not arbitrarily and with no reference to experience, to help give an explanation, that is, to help make a theory. They are likely to be deemed good if the theory works, that is, if the theory explains particular and general facts satisfactorily. The question whether such concepts are true or false often makes no sense, and as to some of the most usuful it can be asserted that they never can be proven true or false. Their function is to organize ideas and facts. This is the kind of thing I mean by "concept" or "construct" in The Functions. (強調は田中) このように、『経営者の役割』における組織概念は、最終的には、組織の管理者にとって、現実の体験を一般化し汎用化する手掛かりとなる道具的な概念であることが確認されるわけである。 それを以下のように指導的観念と呼んでもいる。 そのような枠組を持つことは「基点」を獲得するために必要である。 私は、理論の枠組を与える基本概念の集合を「概念的枠組(conceptual scheme)」と呼んでいる。 基本概念には、構造的なものと動態的なものとの2種類のものを考えることができる。 第一のものは、主題についての、相対的に安定で固定している一般的側面に関するものである。 動態的種類のものは、運動ないし変化の「いかに働くか」についての一般的観念に関するものである。 その区分はいくぶん恣意的であるが、便宜的である。 構造概念は、間断なく継起する諸活動の連鎖の間の安定的な関係についての言明なのであり、何かある固定的なもののセンス、感触、を与えているのである。 Fundamental concepts may be regarded as of two kinds: those which are structual, and those which are dynamic. The first relates to general aspects of the subject that are relatively stable fixed. The dynamic kind relates to the general ideas as to "how it works," of movement or change. The distinction is more or less arbitrary but convenient. They structural concepts are statement of stable relationships between incessantly successive series of acts giving a sense, a feeling, of something fixed. 主要構造概念• 個人(The Individual)• 協働システム(The Cooperative System)• 公式組織(The Formal Organization)• 複合公式組織(The Complex Formal Organization)• 非公式組織(The Informal Organization) 主要動態概念• 自由意思(Free Will)• 協働(Cooperation)• コミュニケーション(Communication)• 権威(Authority)• 意思決定プロセス(The Decisive Process)• 動的均衡(Dynamic Equilibrium)• (管理)責任(Executive Responsibility) 世界政府の計画化について On Planning for World Government この論文は、計画化というものについての考察と、組織に関する考察が行われているものであるが、このページでは組織に関する考察の部分に焦点をあててみていくことにする。 それぞれを素材(material)と呼んでいる。 構造の観点から、すべての組織には3種類の素材があることは明らかである。 第一のそして最も基本的なものに、私は「非公式組織」という名を付けておいた。 それは、社会とか社会のどの下部部分にも浸透している。 非公式組織は公式組織の基礎を提供し、またそれはそれ自体公式組織によって体系化される。 公式組織には2種類ある。 私は、この2種類の公式組織について言っておきたいことを、両者の相違点に焦点をあわせて論じよう。 というのも、この二者間の選択が世界的な公式組織の根本問題だからである。 非公式組織(Informal Organization) まず最初に非公式組織に関する考察が展開される。 『経営者の役割』9章で述べられているものより詳しく視野を広くとった考察になっている。 「社会」はおそらく、何らかの意味で共同で生活している集団としての識別可能な存在をともかくも持っている「人々の集団」を強調する。 「共同体」は、集団ではなくて、共同の生活と、コミュニケーションを通しての相互依存性とを強調する。 「非公式組織」は、社会集団に含まれる人々の具体的な行動の相互依存性に力点を置いている。 それは、社会の機能的側面における規則性にかかわっている。 集団が社会であるのは、非公式組織が集団を共同体に仕立て上げるからである。 そして、それぞれの社会は非公式組織を もっている、と言ってもよいだろう。 The words "society," "community," and "informal organization," for very general purposes are nearly synonymous. "Society" perhaps puts the emphasis upon a "group of people" who somehow have a distinguishable existence as a group living in some sense in common. "Communty" puts the emphasis not upon the group but upon the living in common and upon interdependence through communication. It express the generality of relationships among the people of a group which makes of it society. "Informal organization" puts the emphasis upon the interdependence of the concrete behavior of those comprised in the social group. It refers to regularity in the functional aspect of a society. A group is a society because it is made into a community by informal organizatiuon. A society is because of informal organization and its consequences - community, man-made works, culture, formal organization; and each society may be said to have an informal organization. 上記引用文中の「集団が社会であるのは、非公式組織が集団を共同体に仕立て上げるからである」という一文が、バーナードが非公式組織をどのようなものだと考えていたかを端的に述べた文章だと考えられる。 ただし、ここで言う社会は、人間の相互作用の総体という一番広い社会ではなく、日本社会というような場合の、特定のまとまりを持ったもの(つまり世界には複数の社会がある)という意味での社会と解すべきであろう。 これらの相互作用は、身体的な接触、肉体的な協働の行為、そして、いくらかは比較的未熟な手段によるが、主に言語、特に口頭の言語によるコミュニケーション、から主として成り立っている。 このコミュニケーションという相互作用は、共通のシンボルの、そしてシンボル化された事物についての概念のストックの、開発と使用を伴いながら、観察される事実として、反復的な慣習的方法と様式をとりつつ、発生する。 これらすべてから、物事をやる慣習的方法とコミュニケーションの慣習的方法とが生じるばかりでなく、また、態度、物事を見る慣習的方法、事物についての概念の一定のストック、事象とコミュニケーションへの慣習的反応も生じてくる。 相互作用の精確な性質は、直接的な観察ではほとんど認識できず、「部外者」の観察に何とか用いうるものがあるとしても、それは総体としての相互作用のうちのごくごく一部分だけである。 したがってわれわれは、個人的経験によって、またおそらくは、主としてもっと重要で識別可能な非公式組織の結果を通じて、非公式組織のことを知るのである。 その結果とは、習俗、習慣、共有の嫌悪感、固執される信念、因習、道徳準則、制度、言語、そして、美術と建築、民謡と民俗、文学、祭式と儀式、などのようなある種の具体的証拠、それに 公式組織である。

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Chester Barnard

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チェスター・バーナード『経営者の役割』を読む チェスター・バーナード『経営者の役割』を読む Version 1. 9 Last Modified: May 09, 2020 Windows Explorer は動作保証対象外です はじめに このページについて このページは、経営学(経営組織論、経営管理論)の古典であるチェスター・I・バーナード(Chester I. Barnard)の『経営者の役割』 The Functions of the Executive についての解説(研究ノート)である。 バーナードのテキストを読みながら、田中が要約したりコメントをつけるという形になっている。 このページは、田中求之が福井県立大学・経済学部で担当している社会システム論・経営組織論の授業および演習(『経営者の役割』の輪読を行っている)の補助教材として作成したものである。 『経営者の役割』全般を一般的に解説したものではない。 授業との関連(および田中の個人的な関心)にそって取り上げていくものになっている。 ここに書かれたバーナードが、バーナードの「正しい」姿でもなく「すべて」でもない。 その点は注意して欲しい。 あくまでも、バーナードの『経営者の役割』の組織論との出会いを手引するものである。 このページを読んでバーナードに関心をもったならば、ぜひ『経営者の役割』そのものを読んで欲しい。 田中によるバーナードのコメンタールなどは、以下のページに一覧をまとめてある:• テキスト テキストとして使用したのはチェスター・I・バーナード『新訳 経営者の役割』(山本・田杉・飯野訳、ダイヤモンド社、1968)と、Chester I. Barnard "The Function of the Executive" Harvard University Press, 1938 である。 訳者による序文や、原書の30周年記念版に付されたケネス・アンドリューの序文は、このページではとりあげない。 あくまでもバーナード自身が書いたものだけをみていく。 基本的には訳書を読んで行き、引用も翻訳から行う。 田中が必要と考えた箇所では原文も引用する。 『経営者の役割』の訳文は、今の学生たちにとっては、決して読みやすい文章ではないであろう。 『経営者の役割』は文学ではないし教典でもないのだから、言葉遣いといった、本質的とはいえないものが理解を妨げるのは残念である。 そこで、このページでは、翻訳に則しながらも、田中が訳文に大幅に手を入れている部分もある(訳文の変更作業は随時行っていく予定である)。 文中の小見出しのうち、原文が付していないものは田中がつけたものであり、原文が併記されているものはバーナードの原書の中で節のタイトルなどとして書かれているものである。 また、引用文中における強調(日本語は太字、英語は斜体)は、特に注記していないかぎり原文のまま、つまりバーナードによるものである。 バーナードと『経営者の役割』 バーナードと『経営者の役割』について、テキストを読むための必要最低限の解説をしておく。 チェスター・I・バーナード(Chester Irving Barnard)、アメリカの実業家。 1886年生まれ。 ハーバード大学中退後にアメリカ電話電信会社に入社。 1927年にはニュージャージー・ベル電話会社の初代社長に就任。 数々の社会的活動や政府の活動にも携わる。 社長退職後、1948年からはロックフェラー財団長に転じ1952年まで勤める。 1961年、74歳で生涯を閉じた。 『経営者の役割』は。 1937年に同じタイトルで行われたハーバード大学ローウェル研究所の公開講座での講義を書物の形にしたものである。 彼の『経営者の役割』では、後に詳しく見ていくが、組織と協働体系(協働システム)という2つのキー概念がある。 簡単に言うと、組織は人間を含まない行為のシステムで、協働システムは組織や人間や物的・生物的なものなども含めたシステムである。 この二つは、明確に区別されてはいるが、『経営者の役割』の記述の中には、両者を同じものとして語っているように読める箇所も少なくない。 この点は、主著の成立の経緯が深く影響しているのである。 それについて、飯野春樹氏の『バーナード研究』の「第6章 主著執筆過程における協働体系と組織の概念」をもとに整理しておくと、以下のようになる。 『経営者の役割』は、1937年11月〜12月にかけて、毎週2回ずつ、8回にわたってローウェル研究所主催の公開講座で行った同名の講義を加筆、拡大したものである。 講義にあたって、前もってバーナードは草稿を書いていおり、草稿では人間を含まない組織だけであった。 親交を持っていたハーバード大のヘンダーソン教授から草稿に対してよせられたコメントで、人間を組織の概念的枠組に含めない点を批判された。 草稿をもとに本の原稿を書き上げていく中で、人間を含む協働システムと、人間を含まない組織の区別を導入した (「バーナードがヘンダーソンの批判に応えるべく、主著執筆過程の、あるごく短期間に、組織概念のほかに協働体系概念を追加した事実は、『経営者の役割』をよりよく理解するにあたってきわめて重要な意味をもつものといえよう。 」飯野)• バーナードが組織と協働システムの区別を論じている箇所は、新たに書き加えられたものであり、その部分においては両者の違いは明らかになっているが、草稿をそのまま使ったと思われる部分では、組織と協働システムが厳密に区別されていないように読める箇所も多々残っている。 飯野氏の言葉を引用しておく。 バーナードの思考過程において、まず協働体系概念があって、その後に組織概念が成立したのではなく、むしろ管理理論を構想して組織概念に至り、しかる後に協働体系概念に及んだ事実がわかると、彼の記述過程に見られるわかりにくさ、たとえば、第1部での協働や協働行為の理論から、第2部のはじめで突然に協働体系があらわれ、すぐまた排除されてしまうという読者の戸惑い、あるいは、物的、社会的な要因ないし環境として取り扱われてきたものが、それらの境界線を必ずしも確定することなく、協働体系の物的システム、社会的システムとみなされるという不明確さ、など(他にもいろいろあるだろう)の理由がはっきりするように思われる。 (飯野春樹『バーナード研究』p. 165) 『管理者の役割』を読み進める際には、この成立過程のことを頭の中に置いておく必要がある。 なお、『経営者の役割』出版の後に論文集の『組織と管理』を自費出版している。 また『経営者の役割』出版50周年を記念して日本バーナード協会が編集した『経営者の哲学』という論文集が出ている。 現時点でバーナードの著作は以下の3冊である。 『経営者の役割』 The Function of the Executive 1938• 『組織と管理』 Organization and Management 1948• 『経営者の哲学』 Philosophy for Managers 1988 Edited by W. Wolf and Haruki Ino トリビアルなネタを書いておく。 バーナードは、ニュージャージー・ベル電話会社の社長を退いた後、ロックフェラー財団の理事長を勤めているが(1948-1952)(ロックフェラー財団のサイトにがあるし、がある)、この時に、研究奨励金を出した一人がグレゴリー・ベイトソン(Gregory Bateson)である。 ベイトソンは、『精神の生態学』( "Steps to an Ecology of Mind")(1972)の謝辞の中で、「精神医学の分野ではじめて研究奨励金をいただいたのは、『ナヴェン』( "Naven")を数年間もベッドの脇に置いていてくれたというロックフェラー財団の故チェスター・バーナード氏のおかげである。 」と述べている。 さらにバーナードは『経営者の哲学』に収められた「産業研究のなさるべき組織の諸側面」 1947 においてベイトソンの『ナヴェン』に言及している。 また、1952年のベイトソンとの会見の記録が先に挙げた日誌に残っているが、その中で『ナヴェン』について「独創的な思考に満ちているように思われ、非常に興味深く読んだ」と書いている。 ベイトソン以外のネタとして、1949年には、財団の自然科学部門の責任者だったワレン・ウィーバー(Warren Weaver)から、今では情報理論の父と呼ばれるクロード・シャノン(Claude Shannon)の『通信の数学的理論』の素晴らしさを説かれ、ウィーバーの書いた解説を送られたりもしている(シャノンの本はウィーバーの解説を付したものが出版された)。 バーナードが読んだかどうかは確認できないが、トランジスターの発明者の一人のウィリアム・ショックレーと1951年に面会した際の記録でトランジスターとサーミスターを間違えてることからして、たぶん、電子工学や情報科学には(その重要性は認めても)内容には疎かったと思われるので、たぶんウィーバーの書いた解説は読んでないだろうな(ちなみに、この時の会見では嘘発見器が話題になっているのが、ショックレーらしくて笑える)。 『経営者の役割』の構成 『経営者の役割』は、以下の目次のように、4部構成になっている(訳書の「体系」は、原文に即して「システム」に変更してある。 このページの以下の記述においても同様。 日本語版への序文• 第1部 協働システムに関する予備的考察• 第1章 緒論• 第2章 個人と組織• 第3章 協働システムにおける物的および生物的制約• 第4章 協働のシステムにおける心理的および社会的要因• 第5章 協働行為の諸原則• 第2部 公式組織の理論と構造• 第6章 公式組織の定義• 第7章 公式組織の理論• 第8章 複合公式組織の構造• 第9章 非公式組織およびその公式組織との関係• 第3部 公式組織の諸要素• 第10章 専門家の基礎と種類• 第11章 誘因の経済• 第12章 権威の理論• 第13章 意思決定の環境• 第14章 機会主義の理論• 第4部 協働システムにおける組織の機能• 第15章 管理機能• 第16章 管理過程• 第17章 管理責任の性質• 第18章 結論 大きな流れとして、まず組織論を展開し、それにもとづいて管理論を展開するという構成になっている。 序(Preface) 日本語版への序文 『経営者の役割』の翻訳には2つのバージョンがある。 1956年に最初の翻訳が田杉競監訳で出版され、後に関係者による改訳として1968年に出版されたのが、現在の『新訳 経営者の役割』である。 「日本語版への序文」は、最初の翻訳が出版される際にバーナード自身によって寄せられたものである。 ここでは、主著の刊行から18年たった時点でのバーナードの考えや思いが綴られている。 まずこの本が自分の体験に基づいて書かれたものであることを述べている: 本書がこの種著作のアマチュアのものであって職業的社会科学者の著作ではない。 これを組織だて、その概念用具を展開するに当っては、デュルケイム、パレート、テンニース、タルコット・パーソンズその他多くの人々の著作を研究してそれに負うところが大きいが、それにもかかわらず、 本書の実体は個人的体験と観察とそれに対する長い間の思索から生まれたものである。 これがなんらかの寄与をなすとすれば、それは本来実業人である私の乏しい学識のためではなく、むしろこのような素材のためである。 (強調は田中) 続いて、バーナード自身による主著への注釈が加えられている。 まずこの本の主題と表題についてであるが、この本が組織の管理についての本でありながら組織論から展開されていることに関連して次のように言う: 私が意図したのは、管理者は何をせねばならないか、いかに、なにゆえ行動するのか、を叙述することであった。 しかしまもなく、そのためには、彼らの活動の本質的用具である公式組織の本質を述べねばならぬことがわかった。 ところが私の目的に適当な著作が何もないところから、私はどうしても正確にいうなら 「公式組織の社会学」とでも呼ぶべきものを書かねばならなかった。 読者も気づかれるように、それでも狭すぎる表題であろう。 なぜなら本書はいくつかの学問、とくに社会学、社会心理学、政治学および経済学と交差している。 公式組織としての家族、氏族、種族を除いては、この問題はいままで軽視されてきたように思われる。 その結果、 公式組織とは政治体系、法律体系、経済体系あるいは準機械体系と対立する意味の社会体系であるという命題を中心とするようになった。 (強調は田中。 なお原文を参照できないため、「体系」はそのままにしてある。 ) 注釈の第2点として、権威の本質についてコメントしている。 ここで触れられているには、第12章で展開されている権威の理論のことで、権威受容説として有名なものである。 自分の考えに間違いがなかったということを述べている。 : 権威は本質的に主観的性格のもので、公式の同意と、権威に従うといわれる人々の非公式の同意ないし無関心を含む。 1938年以来の経験と、公式的権威を身をもって実行する人々との長い議論とによって、当時私が述べた見解を確かめることができた。 注釈の第3点は、バーナード組織論の特徴でもあり、ある種の特異性でもある、有効性と能率に関すること、特に「能率」という概念=用語に関して、補足的な説明を加えている。 能率については、本文で確認するが、バーナードの「能率」とは、協働に関与者の満足の度合いを指すものである。 以上の補足的な意見を述べた後、この『経営者の役割』では述べられなかったこと、バーナード自身が欠点とみなすことについて述べられる: 1938年以来の私の経験からすれば、当時書いたところにほとんど変更を加える必要がないと思われる。 もっとも公式組織におけるステータス・システムや私が側生組織とよんだものに若干付言してもっと明らかにすべきであった。 このような拡充の一部は私の『組織と経営』のなかに含まれている。 しかし 非常に重大な一つの欠点は、そのときもいまも、責任の問題を扱わなかったことである。 権威を論ずれば、当然、はるかに重要な、しかしあまり理解されていない委任、それの責任の問題、責任が重くなるにつれて委任と矛盾すること、権限と責任との従属関係や、責任の分散、伸縮性および釣り合いのとれた創意を促進することの重要性などを明瞭に議論すべきであった。 (強調は田中) ここでバーナードが述べている責任の問題に関しては、後の『経営者の哲学』に収められた論文で論じられており、責任優先説として定式化されたものである。 最後に、「本書は公式的協働行動一般にわたることを目的としたものであり、事業以外の組織についての著者の経験からみても、本書はそうなっているのである。 」という言葉で「日本語版への序文」は終わる。 序(Author's Preface) 原書の序文では、まず、この本の経緯が述べられる: 本書は、1937年11月、12月にボストンのローウェル研究所で八回にわたっておこなった同名の講演の原稿に加筆、拡大したものである。 続けて、自分の体験を論述したような組織の一般的特質を論じたものがないということを述べる。 彼自身の言葉を拾っておく: ところが私の知るかぎりでは、私の経験に合致するように、あるいは管理実践や組織のリーダーシップに練達だと認められた人々の行為のうちに含まれる考え方に合致するように、組織を取り扱ったものは一つも存在しない。 管理職能を理解するためには、組織の地誌や製図法以上のものが必要であろう。 いかなる種類、性質の力が、どのように作用しているかを知ることも要求されるであろう。 彼ら(社会科学者たち)の叙述している現象の少なくとも大部分の基底にある調整と意思決定の過程を感得しているものはまれである。 もっとたいせつなことは、公式組織が社会生活の最も重要な特徴であり、また社会そのものの主要な構造的側面であることがあまり認識されていない点である。 こうした事情の理由としてバーナードがあげるのが、国家と教会に関する思想、あるいは経済思想(人間行動の経済的側面の誇張)である。 それらによって誤って捉えている組織というものを、自分の体験と信念によって論じ直したものが本書というわけである。 序では、本書が2部構成と捉えうることが述べられる: 形のうえで、本書は四部に分かれているが、ある意味では二つの短い研究から成り立っている。 本書の前半をなすのは協働と組織の理論の展開であり、後半は公式組織における管理者の職能と活動方法との研究である。 この二つの主題は、ある目的からは区別するのが便利であるが、具体的行為と経験では不可分のものである。 こうした言葉から分かるように、バーナードが論じようとしたのは、社会に広くみられる組織というもの本質の理解と、その理解をもとにした管理のあり方である。 このページでは、彼の言う前半部分に焦点をあてるものであるが、それらの理論も、最終的には管理実践を支えるものであることを念頭に論じられているものである。 序の最後で、この本の反省を述べている。 その中で、先の「日本語版への序」とは違う、ある意味でもっと本質的な点について語っている: 私がもっと遺憾に思うのは、組織の センスを読者に十分に伝えることができなかったことである。 それは とうてい言葉では説明できないような劇的、審美的な感情であって( the dramatic and aesthetic feeling surpasses the possibilities of exposition)、主に自ら興味をもって習慣的に試みる経験から生まれるものである。 多くの人々が組織の科学に関心をもたないのは、重要な要因を感じとれないで、組織化の技能に気づかないからである。 人々は音を聞き分けられないために、交響曲の構造や作曲技法や演奏技術をつかめないでいる( They miss the structure of the symphony, the art of its composition, and the skill of its execution, because they cannot hear the tones)。 言葉を積み重ねていっても、最後は実践の場で感得できるようなある種の感覚までは捉えきれない/伝えきれないということであるが、この点については、バーナードの本書だけでなく、実践に関わる科学一般にまつわる問題であるようにも思える。 ただ、バーナードの本書によって、我々は音色を聞き分けられるようにはなるのではないかと思う。 そこから先は、まさに本人のセンスや才能の問題かもしれないが。 公式組織が重要なものでありながら、それがきちんと論じられていないと述べる: 社会改造の文献において、現代の不安にふれない思想は一つもないが、 具体的な社会的過程としての公式組織( formal organization as the concrete social process)に論究しているものは事実上まったく見当たらない。 社会的行為は主としてこの社会的過程によって遂行される( [the concrete social process] by which social action is largely accomplished)のに、この具体的過程は。 ほとんど完全に無視され、なんらかの社会的条件や社会的情況を構成する一要因にもされていない。 公式組織はいたるところにあるものである: われわれの社会で目に付く人間の行為—すなわち動作、言語およびその行為や言語から明らかとなる思想や感情—を注意深くみると、それらの多く、ときには大部分が公式組織に関連してきめられたり、方向づけられていることがわかる。 5や10以下の組織にしか属していないような人々はおそらくはほとんどなく、多くの人々が50以上の組織に所属しているであろう。 これらの人々の個人的行為は、このような諸関係によって直接に支配され、規制され、条件づけられている。 そのうえ、一日とか一週間のような短期間には、名前もないし組織とは考えられもしないような短命の、せいぜい数時間の生命しかない公式組織が無数にある。 上の引用からも、また先の序の部分での言葉からもわかるように、バーナードのいう公式組織というのは、きわめて広範な人間関係を包摂する概念である。 複数の人間の間で生まれる社会的システムを公式組織という概念で捉えているのである(この点は、バーナードの組織論の特徴であると同時に、限界を課すものにもなっている)。 このような協働は、今日ではどこでもみられるし、また避けえないものであるため、あたかも他の協働の仕方がまったくないかのごとく、「個人主義」とのみ比較されるのがつねである。 このように、バーナードのいう公式組織は、我々の社会生活を組み立てている協働一般をとらえたものである。 そして、そうした身近なものであるがゆえに公式組織とは簡単に成立し維持されるかのように思われているが、そうではないということに注意を促す: しかし、実際には、公式組織のなかでの、あるいは公式組織による協働が成功するのは異例であり、通常のことではない。 日常われわれの目につくのは、数多くの失敗者の中でうまく生き残ったものである。 つねに注意をひきつづける組織は例外であって原則ではなく、しかもそのほとんどがせいぜい短命なものである。 なぜか? それは組織が環境のなかで存続しなければならないものであるということから来る。 そして環境のなかで均衡を保ち組織を維持させるプロセスこそが本書で論じる対象である: ……、公式組織の不安定や短命の基本的な原因は、組織外の諸力のなかにある。 これらの諸力は、組織が利用する素材を提供するとともに、その活動を制約する。 組織の存続は、物的、生物的、社会的な素材、要素、諸力からなる環境が不断に変動するなかで、複雑な性格の均衡をいかに維持するかにかかっている。 このためには組織の内的な諸過程の再調整が必要である。 ( The survival of an organization depends upon the maintenance of an equilibrium of complex character in a continuously fluctuating environment of physical, biological, and social materials, elements, and forces, which calls for re-adjustment of processes internal to the organization)。 われわれは調整がなされるべき外的条件の性格にもふれるが、主たる関心は、その調整が達成される過程である。 バーナードの組織(システム)概念が、均衡を軸としたホメオスタティックなシステム概念であることがうかがえる記述になっているが、組織の存続は、まさに問題であるのだという点を強調するわけである。 そして、組織の存続のための調整過程を担うのが管理者としての職能( functions of the executive)ということになるわけだが、その職能は、かならずしも管理者だけが担うものではなく、あらゆる段階で統制的地位にあるすべての人々にもよっても行われるものであると述べる。 それゆえ、本書で言う管理職能に関して、いかのような注意を述べている: ……この研究で問題とする管理職能は、管理者と呼ばれるたいていの人々の主要な職務によってはただ大まかにしか示されないということ、したがって慣習的な肩書きとか、「管理者」という言葉の特殊な定義によって制限されるべきではないということを注意しておこう。 また、あらゆる公式組織が本書の考察の対象であることが確認される。 そして、本書の論述の展開について、まず協働システムの予備的考察を行い、概念的な枠組みの確認を行ってから、後半で公式組織の要素、諸要素と管理職能との関連、そして最後に協働の存続について論じられることが告げられる。 第2章 個人と組織(The Individual and Organization) バーナードは、まず個人というものをどのように捉えておくかということから組織論の論述を始める。 なぜそうするのかについて、章の冒頭部分の彼の言葉を引いておく: 組織の研究、あるいは組織との関連における人々の行動の研究をすすめようとすれば、どうしても「個人とは何か」「人間とは何を意味するのか」「人はどの程度まで選択力や自由意志をもつのか」というような、すぐに出てくる二、三の疑問に直面せざるをえないことがわかる。 できることならこの難問を回避し、いく世紀たってもいまなお論じつづけている哲学者や科学者に委ねてしまいたいが、たとえ我々が明確に答えることをさけても、結局はこのような問題から逃れられないことがただちに明らかとなる。 すなわち人間の行動について何かを語る場合には、暗黙のうちにその問題に答えていることとなるし、さらに重要なことは、あらゆる種類の人々、とくに指導者や管理者の行動は、たとえ無意識的にせよ、その問題に関する基本的な前提や態度にもとづいているからである。 しかし、個人といっても、色々な見解や理解がありうる。 そこで、バーナードは本書における個人や人間について、以下の点に関して述べるとする。 個人の地位および人間一般の特性(The status of individuals and properties of persons generally)• この書物における個人や人間の取扱い方法• 協働システム外の個人的行動の特徴• 個人的行動における「有効性(effectiveness)」と「能率(efficiency)」の意味 個人、人間、パーソン 物的存在としての人間:まず個人というものだが、人間が物的な存在であることは間違いないが、物的な面においても、「個別的な物体として扱うか、あるいは一般的な物的要素のたんなる一局面か関数的な表現として扱うの、いずれかである」。 人間を扱う目的によって違う。 人間有機体:人間は単なる物体だけではない。 「生きもののとしての人体は、その内外のたえざる変化や広範な変異にもかかわらず、適応力、内的均衡を維持する能力、したがって継続性をもっている。 そのうえ、経験の能力、すなわち過去の経験を生かして適応の性格を変える能力をもっている」。 この意味で、人間は物的なものと生物的なものから成り立つ有機体である。 物的及び生物的要因の統合物として生きて行動するものである。 社会的存在:人間という有機体は他の有機体との関係をもたずして生きられない。 それゆえに物体の相互作用とはことなる社会的関係/社会的要因をもつ: 人間有機体の相互作用は、たんなる物体の相互作用、または物体と有機体との間の相互作用とは、経験や適応性を 相互に持ち合わせている点で異なるものである。 必要な適応と経験は、各有機体それぞれに固有の諸要因によって決められる物や機能に関連するだけではなくて、反応や適応それ自体が相互に作用することにも関連する。 換言すれば、二つの人間有機体の相互反応は、適応的行動の 意味と 意図に対する一連の応答である。 この相互作用に特有な要因を「社会的要因」と名づけ、その関係を「社会的関係」と呼ぶ。 The adaptation required and the experience relate not merely to things or functions determined by factors inherent in each organisms separately, but to the mutuality of reaction or adjustment itself. In other words, the mutual reaction between two human organisms is a series of responses to the intention and meaning of adaptable behavior. 結節点としての個人:このような社会的存在としての人間は、様々な関係や相互作用の結節点として考えることができる。 「個人はわれわれの関心の広さに応じて、一つの要因の象徴となり、あるいは多くの要因の象徴ともなるのである。 歴史的存在:個人は、それぞれが独特の経歴をもった存在である。 我々は身近な人々のことは、こうした具体的な履歴をもった特異な具体的な人間としてみるが、関心が遠のくと、「個人」は具体的な個人ではなく、ある側面を示す点としてみるようになる。 この書物での個人:以上の議論を踏まえて、バーナードは、本書における個人というものを以下のように定める: この書物で個人とは、過去および現在の物的、生物的、社会的要因である無数の力や物を具体化する、単一の、独特な、独立の、孤立した全体を意味する。 In this book we mean by the individual a single, unique, independent, isolated, whole thing, embodying innumerable forces and materials past and present which are physical, biological, and social factors. このように個人をおさえておき、個人の特定の側面や機能に言及する場合には、「個人」ではなく、「従業員」や「貢献者」といった外の言葉を使うということを述べる。 人間の属性 「個人」というもの押さえたのに続いて、人間の特性の考察へと進む。 ここで論じられる特性とは、「パーソン(Person)」という言葉で捉えられる属性を指す(翻訳では person の訳として「人間」があてられているが、このページでは必要に応じて「パーソン」とする。 翻訳の訳注として挿入されているように、人格的存在という意味で捉えておけばよいだろう)。 バーナードは、「個人」という名詞を「一人の人間」という意味で使い、「パーソナル」という形容詞でその特性(属性)を強調するのが便利だという。 バーナードがパーソンの特性(属性 properties)として挙げるのは以下の4つ:• 活動ないし行動(activities or behavior)• 心理的要因(psychological factors)• 限定的な選択力(the limited power of choice)(翻訳では「一定の選択力」)• 目的(purpose) 以下、それぞれについて、バーナードの言葉を拾う形でまとめておく。 活動、行動:個人の重要な特徴は行動であり、「その大まかな、容易に観察される側面が行動と呼ばれる。 行動なくして個々の人間(individual person)はありえない」。 心理的要因:「いわゆる個人の行動は心理的要因の結果である。 「心理的要因」という言葉は、個人の経歴を決定し、さらに現在の環境との関連から個人の現状を決定している物的、生物的、社会的要因の結合物、合成物、残基を意味する( The phrase "psychological factors" mean the combination, resultants, or residues of the physical, biological, and social factors which have determined the history and the present state of individual in relation to his present environment)。 」 選択力:「実際的な問題においても、また多くの科学的目的のためにも、われわれはパーソンには選択力、決定能力、自由意思があるものと認める」。 「しかし、この選択力には限界がある」。 「個人が、物的、生物的、社会的要因の結合した一つの活動領域(a region of activities)であるかぎり、これは当然のことである」。 この限界があることが、選択を可能にしているということが重要である。 「選択には可能性の限定が必要である。 しては いけない理由を見出すことが、なすべきことを決定する一つの共通な方法である」。 「意思決定のプロセスは主として選択をせばめる技術である」。 目的:「 意思力を行使しうるように選択条件を限定しようとすることを、「目的」の設定または「目的」への到達という( The attempt to limit the conditions of choice, so that it is practicable to exercise the capacity of will, is called making or arriving at a "purpose". 「この書物では、主として組織化された活動に関連ある目的を問題とする」。 目的が、目的そのものが何かということではなく、選択行為との関連で語られていることには注意しておいてもよいだろう。 以上の議論を補足する形で、自由意思や選択力の過大評価に注意を促している。 少し長くなるが、バーナードらしい議論の部分なので引用しておこう: 個人の選択力やその意味を過大視することは、ある場合にはたんに誤解の原因となるのみでなく、まちがったむだな努力の原因ともなるということを、この際付言しておきたい。 個人が選択力を持つ—私のみるところ、ありもしないのに—という仮定にもとづいて、行為がなされることがよくある。 したがって、その場合には、個人が服従しないのを、実は服従 できないのにもかかわらず、意識的に反抗していると誤解される。 もし自由意思の考え方を既述のごとき内容により近いものと理解する場合には、個人の行動を規定しようとする努力の一部は、訓練、説得、刺激の設定によって個人を規制するなど、行動の諸条件を変更する形をとるであろう。 このような方法は管理過程の大部分を構成するものであり、大部分が経験や直観にもとづいて遂行されている。 自由意思について正しい認識をもたないことが、管理活動の失敗の重要な原因である。 個人、パーソンの取扱い 以上の議論をふまえて、バーナードは、本書ではパーソン(人間)を二様に扱うとする: この書物では 特定の協働システムの参加者としてのパーソンを、純粋に機能的側面において、協働の局面とみなす。 人々の努力は、それが協働的であるかぎりにおいて非人格化され、逆にいえば社会化される。 第二に、なんらかの特定の組織の 外にあるものとしてのパーソンは、物的、生物的、社会的要因の独特に個人化したものであり、限られた程度の選択力をもつものとみなされる。 このような二側面は、時間的に二者択一的なものではない。 ……、同時に存在するところのものの異なった側面にすぎない。 両者は協働体系ではつねに並存する。 このように、協働の関与者、つまり協働を成り立たせる行為の担い手という点では、機能的なものとしてとらえ、協働の作用する対象としては個人としてのパーソンとして捉えるわけである。 一人の人間は、協働システムに関与する場合でも、働きを担うものでありながら、協働から影響を被ったり報酬を与えられるものでもあるというように、二重の関わりを同時にしていることになる点に注意。 この二重の人間の取扱いは、後に述べられる組織に人間は含まれないというバーナードの組織の定義に繋がっている。 個人の行動 個人、パーソンの考察に続いて、個人(協働システムに外的なものとしての個人)の行動に関して考察を行っている。 「パーソンは、この側面において特定の協働システムに入るか否かを選択する」わけであり、協働システムの成立条件・存立条件を考える場合には、パーソンのこの側面が重要になる。 協働システムへの参加の選択について、バーナードは次のようにいう: この選択(=参加の選択)は、 1 そのときの目的、欲求、衝動、および、 2 その人によって利用可能と認識される、個人の外的な他の機会、にもとづいて行われる。 組織はこれらの範疇のうちのひとつを統制したり、影響を与えることによって、個人の行為を修正する結果生ずる( Organization results from the modification of the action of the individual through control of or influence upon one of theses categories. これらのものを慎重に考慮して専門的に統制することが管理職能の本質である( Deliberate conscious and specialized control of them is the essence of the executive functions. バーナードは「動機(motives)」の考察へと進む。 人間の欲求、衝動、欲望を動機と呼ぶ。 「動機は、主として過去および現在の物的、生物的、社会的環境における諸力の合成物である」。 先の述べた心理的要因を言い換えたものである。 ここで、バーナードは通常、動機が持ち出されてくる因果関係とは異なった位置づけを行う: (動機は) 行為によって、すなわち事後的に推論されるものである。 もとより、われわれが「想像」と呼ぶところのものが現在の情況の一要因となる場合も、ときにはあり、またときどき人間は自分の「動機」に気がつくこともありうる。 しかしある人の欲求は、本人にとってさえ、選択行為の機会が与えれて、自分のすること、あるいはしようとすることからのみ知ることができるのが常である。 (強調は田中) このように、何らかの動機が、ある動機として明確になるのは、選択の後に、事後的なものとしてである、という見方がバーナードにはある。 動機は観察されるものである、といってもよいだろう。 つづけて、動機は目的によって述べられることが多いが、心理的要因(諸要因の合成物)として生ずるものである以上、目的そのものが本当に動機そのものなのかどうかは明らかではないと述べる。 バーナード自身は展開していないが、ここの議論を押し進めると、動機とは事後的に諸要因の中から説明のために「戦略的に」観察によって選択された要因であるとの考え方に行き着くこともできるだろう。 このように考えると、活動が目的を達成することで動機が満たされることもあれば、満たされない場合もありうるのは当然のことになる。 このように、人間の活動は、動機が単純に目的と因果的に結びついているようなものではないということである。 さらに、人間の活動に関して、「活動はつねに求めない他の結果を伴う( The activities always have other effects which are not sought)」ことが確認される。 求めざる効果は、ささいな無視できるようなこともあれば、重大な結果を引き起こすこともある。 このことが、バーナードのキータームの一つである能率へと繋がっていく。 パーソンの行動の能率と有効性 活動には求めざる結果がつねに伴うということを踏まえて、個人的行為と組織的行為に関して「有効的(effective)」と「能率的(efficient)」という二つのターム(概念)を区別する必要があると述べる。 行為が特定の客観的目的をなしとげる場合には、その行為を有効的という。 また、たとえ有効的であろうとなかろうと、行為がその目的の動機を満足し、その過程がこれを打ち消すような不満足を作り出さない場合には能率的であるという( We shall say that an action is effective if it accomplishes its specific objective aim. We shall also say it is efficient if it satisfies the motives of that aim, wether it is effective or not, and the process does not create offsetting dissatisfactions. ある行為が動機を満たさないか、または不満足を生ずる場合には、その行為はたとえ有効的であっても、非能率的であるという。 このように、バーナードは「有効的(effective)」で目的の達成度、「能率(efficient)」で(行為者の)満足度を評価する。 行為や活動をこの二つの軸で評価することは、個人の行動に限らず、協働、協働システム、公式組織と、すべてのレベルでバーナードが一貫して行っていることである。 特に「能率」をつねに考慮することが、単に目的達成に合理化されることだけが「良い」組織なのではないとするバーナードの立場があらわれている。 この章の最後に、この章で述べたことを総括して、人間の自由意思を尊重する哲学と、人間を決定論的に論じる哲学との両方を、社会現象の二つの側面をあらわすものとして両方受入れることが必要だと述べる。 そうした態度が管理者には求められるという章の最後の文章を引いておこう: 協働や組織は、観察、経験されるように、対立する事実の具体的な統合物であり、人間の対立する思考や感情の具体的統合物である。 管理者の機能は、具体的行動において矛盾する諸力の統合を促進し、対立する諸力、本能、利害、条件、立場、理想を調整することである。 It is precisely the function of the executive to facilitate the synthesis in concrete action of contradictory forces, to reconcile conflicting forces, instincts, interests, conditions, positions, and ideals. 簡単にいうと、個人の物的・生物的制約を乗り越えていく手段として協働がある、ということになる。 個人には目的があるということ、あるいはそうと信ずること、および個人に制約があるという経験から、その目的を達成し、制約を克服するために協働が生ずる。 この章では、協働に関して以下の5つの問の答えが順に展開されることになる。 なにゆえに、またいかなるときに協働は有効なのか• 協働過程の目的は何か• 協働過程の制約は何か• 協働システムにおける不安定の原因は何か• 追求する目的に対して協働はいかなる結果を生むか なお、この章の論考では、生物的要因と物的要因のみが存在する(社会的要因は除外)という過程で論がすすめられる。 個人は生物的な欲求を満たすことを目的として行動する、動物機械のようなものと仮定されるのである。 協働の理由と有効性 「個人ではやれないことを協働ならばやれる場合にのみ協働の理由がある」のであり、協働は「個人にとっての制約を克服する手段として存在理由をもつ」わけである。 では、個人にとっての制約とは何か? この点からバーナードは議論をはじめる。 個人にとっての制約とは、二種類の要因の結合結果である。 その要因とは、以下のもの。 個人の生物的才能または能力• 環境の物的要因 二つの要因の結合であるという点に注意を促しておいて、バーナードは次のように述べる: そもそも制約というものは、目的の観点からみた 全体情況の関数である。 それゆえここでは、目的がはっきりしていなければ、「制約」という言葉を使うことは無意味である。 そして一要因に関して制約といわれるものでも、実は他の諸要因との関連においてはじめて明確になるものである。 このように、目的と環境の関係の中で「制約」は見出されるわけだが、通常は、能力の側ではなく環境の側のほうが変更しやすいので、物的環境のなかに「制約」が見出される。 二人以上の人々が協働できる可能性がある場合には、協働できるかどうか、協働でどれだけのことが可能になるか、といったことも制約を見出し目的を達成しようとすることに関連してくることになる。 協働は個人の生物的制約を克服したり打破するには有効である。 協働が有効となるのは、個人の力の協働的結合が有効になる場合ということになるが、この条件に関しては、否定的に考察するのがよいとバーナードは述べる。 つまり、「協働が有効でないのはなにゆえか、それはまたいかなるときか」という問の答えを明らかにしておこうというわけである。 これについてはバーナードは次のようにまとめている: 1 人力の結合がどこまで有効となるか、その程度はどんなに好ましい事情のもとでも小さなものである( The possible degree of effectiveness of combination of any human powers is under most favorable circumstances small. 2 個人はあらゆる才能や能力を結合して全人として活動する。 ある能力については結合が好ましい事情であっても、他の能力にとっては好ましくない場合があるから、結合には、たとえ利益があるとしても、その利益を相殺する不利益がつねに含まれているものである( Circumstances favorable to combination in respect of one power are unfavorable as respects others. Accordingly, combination always involves disadvantages which may offset advantages, if any. 3 経験や観察によって容易に確認されるように、 1 と 2 の項目から、最も好都合な場合以外には、 協働の有効性は、もしあるとすれば、個人的努力をいかに整然と結合するかに依存する( effectiveness, if possible, depends upon an ordered combination of personal efforts. ここで必要な整序は、発見や発明の問題である( The ordering required is a matter of discoveries or of invention. 少し分かりにくい表現になっているが、人力結合の有効性が小さいことや、結合し統合したことによる不利益が少なからずあること、それゆえ、どのように秩序づけるかが鍵になる、というわけである。 このように考えると、協働はけっして簡単に成り立つものではないのである。 「有効性という限られた見地だけからでも、協働のむずかしさは明らかであり、環境のわずかな変化でも成功可能な方法をたやすく無効にすることがある」。 このように、バーナードは組織や協働といった「当たり前」に感じているものに、多くの困難がひそんでいるのだということを明らかにしていくという形で論をすすめる。 協働の目的 協働の目的は、個人的行為の目的とは異なるという点が論じられる。 「協働的諸制度を少しでも調べてみれば、協働的努力の目的は種類と質において変化するし、ある目的は個人的行為を許さないことがわかる」。 協働にみられる迂回的行為(間接的な目的)にバーナードは注目する。 間接的な目的として:• 将来の行為にとって便利なように、環境の変化を要するような目的• 将来の効用を生み出すと期待されるような変化を必要とする目的• 将来使う素材の位置の変化を要する目的• 生物的な力を補足したり、後でそれをより有効なものとするために素材の形成を伴う目的 このような間接的な目的の行為(迂回的行為)は「すべての協働的努力に見出されるが、行為が協働的となるとそれらは個人的な性格(personal character)を失う。 その媒介的プロセスとは分配的なものである(This process is distributive)」。 つまり、協働として個人が行うことの中には、直接に協働の達成に結びつくものでもなければ、関与している個人が個人的に欲して行っているものでもない行為が多く含まれる。 協働的目的と個人目的は分離し二重化するわけである。 それゆえに、協働の成果と、個人の目的を媒介するプロセスがなければならないのである。 ただし、分配するとはいえ、協働の成果を山分けするような簡単な話しにはならないことが多い。 そのうえ個人的行為ではみられない二つのタイプの他の行為が協働システムでは作用し始める。 第一のタイプは、協働それ自身の 促進をめざすものである。 第二のタイプは協働システムの 維持をめざすものである。 このように、協働が始まると、単純に目的の達成を追求する活動だけでなく、分配、あるいは協働の促進、システムの維持といった迂回的な活動が必要になり、その比重が高まる。 それゆえに、「協働が一度確立されると、上述したすべての種類の活動の間に注意の焦点が移動し、順次、各活動がその時の制約の中心となったり、その情況における制約的要因になったりする」のである。 環境の変化と原初的管理部門 環境の変化が協働システムにも継続的な適応を迫ることになるのだが、協働の適応と個人の適応は異なる。 個人の場合は生理的な適応行動ということになるのだが、協働システムの場合には、組織的活動の均衡を保つということになる。 これらの適応能力はもう一つ別種の制約的要因である。 この事実から、協働システムでは適応のプロセスおよび専門的な機関、すなわち協働を維持することを専門とする活動の側面が発展してくる。 このような適応プロセスがマネジメント・プロセスであり、そしてその専門機関は管理者と管理組織である。 したがって、このようなプロセスと機関が、こんどは協働の制約となる。 異常な大変動でも起きないかぎり、それらはたいていの協働システム、また特に複雑な協働システムでは、実際、最も重要な制約である。 このように、バーナードは、変動する環境への適応の必要性から、管理プロセスや管理部門を必要性を導き出すのである。 目的の変更 協働の不安定性は「物的環境の変化と協働システム内の適応や管理プロセスの不確実性とから生じるばかりでなく、可能性の変化に伴う行為目的の性格の変更からも生じる」。 「新しい制約が一つ一つ克服されるごとに(あるいは失敗するごとに)、新しい目的があらわれ、古い目的が放棄される」。 このように、環境のなかで協働が進行するにつれて目的の変更が生じるわけである。 なお、ここでバーナードは協働(協働システム)が拡大傾向をはらむものであることについて、次のようなことを述べている。 ここで強調されねばならないのは、協働の発展に伴って目的の数および範囲が拡大することは、変化する環境のもとでの自由意思の概念に固有なものであるようにもみえる、ということである。 目的の数または種類のかかる拡大は、それ自体として協働における不安定要因となるし、またおそらく協働が発展し、より複雑になるにつれて、いっそう不安定要因は増大するだろう。 バーナードは自由意思に結びつけているが、システムの拡大傾向は、環境への適応(たとえば、新たな問題ごとに対処用の下部システムを分化させる)で説明がつくことではある。 だが、自ら不安定要因を作り出す傾向を協働がもっているという指摘は面白い。 なお、この章のあちこちの論述で、バーナードは、協働システムとか組織とかを何の定義もなくポーンと使っている。 後の展開で協働システムと組織は厳密に異なる概念であることが述べられるのだが、この章の既述などでは、それほど区別せずに使っているように読めるし読むのが普通だろう。 このあたりは、本書の成立の経緯にも関係すると思われるが、そのへんは、バーナードの研究書などで調べて欲しい。 心理的要因については2章ですでに「個人の行動の物的、生物的、社会的要因の合成物」という規定がなされた。 さらに個人には過去の経験が現在に影響するという意味での経験・記憶(条件づけ)があり、他方で選択力があるともされたのであった。 個人には経験と選択力があるとみなすことから、他の人と関わりをもつような情況における個人の評価は二つになるとバーナードはいう。 第一の評価は、その情況における個人の 能力に関するものであり、第二の評価は彼の能力の範囲内における 決断力または意欲に関するものである( The first appraisal is concerned with the individual's powers in the situation. The second appraisal is concerned with his determination or volition within the limit set by his powers. 第一の評価は彼は誰か、彼はどんな人か、どのようなことができるか、という質問に対する回答によって表現され、第二の評価は、彼は何を欲するか、何をしようとしているのか、何をするつもりか、という質問に対する回答によって表現される。 このように、個人のパワーと意思の二面の評価になるわけだが、これが行動には次のような影響を与えるという。 他の人と満足な関係を確立するために、現実に、一人の人間がなしうることは、他の人の選択の 限界を狭めるか、または選択の 機会を拡大するかのいずれかである( What actually may be done by one person to establish satisfactory relationships with another person may be approached either by the attempt to narrow the limitations of the second person's choice, or to expand the opportunities of his choice. 第一の場合は、外部の情況を変えるか、あるいはその人の「心理状態(state of mind)」を変えるのかいずれかの方法、換言すれば、可能性を制限するか、またはその人の欲望を制限するか、のいずれかである。 第二の場合には、……、相手が利用できる他の手段を付け加えて、彼の選択力を広げるのである。 このことは、他人に対して行動する場合の行動の仕方が、次の二つのいずれかであることを示すとバーナードはいう。 彼らに影響する要因を変えることによって、彼らを 操縦しうる客体とみなす。 欲求を 満たすべき主体とみる。 どちらの場合でも、社会的要因は含まれるが、他の要因と不可分の形でまじりあっており、分析の目的からのみ区別されるに過ぎない。 したがって、われわれの用語のうえでは、個人の うちから協働システムに働きかけている明確な社会的要因は存在せず、むしろ社会的要因は、協働システムならびに他の社会的関係から個人に 対して働き掛けるものなのである。 社会的要因とは、協働システムから個人に対して作用するものとしてあるということである。 社会的要因 協働における社会的要因としてバーナードが挙げるのは次のものである。 協働システム内の個人間の相互作用• 個人と集団間の相互作用• 協働的影響力の対象としての個人• 社会的目的と協働の有効性• 個人的動機と協働の能率 では順にバーナードの論をざっとみていく。 個人間の相互行為 個人間の相互行為は「避けようとしても 避けることのできないものである。 したがって求めたのではないけれども、このような相互作用は協働の結果であり、協働の中に含まれる一組の社会的要因を構成する」。 この要因は人々の精神的、感情的な面に影響を与える。 協働を促進する場合は「調和」をもたらし、阻害するような場合は「不調和」をもたらす。 個人と集団 相互作用は、個人と集団の間にも存在する。 この場合、集団とは、他の人々の集まり(結合、総和)という点と、一つの作用主体という点の二つの意味をもつ。 後者の意味では「集団は社会的行為の一つの システムを意味し、 全体としてその内部の各人と相互に作用しあうのである( the group presents a system of social action which as a whole interacts with each individual within its scope)。 集団は、個人の心理的性格、したがって個人の動機に、普通ならば生じないような変化をも生じさせるものであり、協働システムでは不可避的なものである。 協働の対象としての個人 上記の二つの関係は意識されないものであり、非論理的なものであるのに対して、協働システムが個人に対して意識的な、意図された関係をもつことがある。 二つの側面がある。 )」と述べるわけで、「公式システム」が定義なしに登場するのだが、ようは、「協働的努力の目的と個人の目的とを完全に区別することが重要」という話になる。 協働システムの目的が達せられた場合には、その協働は有効的であったというし、達せられていなければ有効的でなかったということになる。 ここで注意するべきなのは、有効的かどうかは、協働システムの観点から決定されるべきことであって、個人的観点は関係ないということである。 つまり、協働の個々人の行為が有効的であるということと、協働が有効的であることは、別の次元の話である。 このように、バーナードの有効性は、どの観点(レベル)で評価/観察しているのかに注意しなければならない概念である。 協働の能率 能率の場合は、有効性とは違って、協働の能率は個人の能率の合成物になる。 あくまでも各個人の動機がどれだけ満たされたかがもんだいになるわけで、動機の充足度の総和が協働の動機の充足度、つまり能率になる。 ここでバーナードは限界効用の考え方にも似た、限界的貢献なるものを語り始める。 ある人が、協働システムに貢献するにあたってその行為が非能率的であると(あるいは非能率であるかもしれないと)判断すれば、その行為をやめる(もしくは差し控える)。 もし彼の貢献がシステムにとって不可欠なものである場合には、彼の非能率はこのシステムの非能率となる。 なぜならば、システムは存続しえないし、したがってすべての人に対して非能率なるにちがいないからである。 それゆえある協働的努力のシステムの能率は、限界的貢献の能率に依存し、限界的貢献者によって決定される。 これは協働システムの能率の唯一の尺度がシステムの存続能力であることを意味する。 能率に関係して、協働システムに貢献することと、求めざる結果の関連について、述べる。 「協働の能率はしばしば、具体的目的を達成する過程に付随する満足や不満足に依存する」。 そして、最後に、協働のもっとも一般的な結果は、社会的条件づけであると述べられる。 人々の動機は協働によってたえず修正されている。 そして、同時に、そのことによって、協働自体も変化を受けることになる。 この後、これを例証していく議論が続く。 われわれの行為が、いかに様々な要因が関係した情況で行われているか、そして、そのような複雑な情況を変えようとすると、「全体を変えることは、一時に一つの要因に働きかけることによってしかできない」ことが確認される。 協働行為が全体状況で行われるものであること、そうした情況への働きかけとしては、ある一つの要因に働きかけていくしかないこと、こうした上記の議論を受けて、バーナードは、以下の4つの展開する。 目的行動においてこれらの制約を克服するプロセス (the processes of overcoming those limitations in purposive conduct)• たとえば、スピーチの声が聞こえないという場合でも、事態を引き起こしているのは、声が小さい、場がうるさい等、色々な要因の複合である。 制約の克服と目的 上記のように、制約というものは基本的には諸要因の合成効果であるが、目的達成のために行為をなそうとする場合には、一つの要因によるものとみなしてもよい場合がある(あるものを働きかけるべき主要な要因とみなす)。 このような要因のことをバーナードは「戦略的要因(strategic factor)」と呼ぶ。 情況は複合的である以上、戦略的要因とされた一つの要因が情況の変化(修正)を直接引き起こすのではないが、戦略的要因の変化によって他の要因も変化が生じ、結果的に状況の変化を引き起こしうるというわけである。 情況の複合的全体性と、行為の具体的個別性の対比は、バーナードの行為論の中心的な考えであると言ってもよいだろう: (情況の)修正は全体情況の変化による。 つねに諸関係や諸条件をきめるものは、意識されると否にかかわらず、すべてに要因の総体であるが、努力の目的は、一部分を変えることによって好ましい方向に全体情況を変えることである。 the correction is due to the change in the total situation. At all times it is total of all factors recognized or unrecognized, that determines the relationships or the conditions; the object of effort is to change a total situation favorably by change in a part. 情況の複雑性そして協働の変化によって、目的の変更が必要になってくることをバーナードは言う。 そして、協働の目的というものについて、以下のように述べる: (物的、生物的、社会的)これらすべての要因で構成されている全体情況を変えるための手段として、つねに特定の要因に働きかけるのであるが、この働きかけの 究極の目標は個人的動機の満足である。 しかしその 直接的結果は、 1 これらの動機の直接的満足か、 2 協働のよりいっそうの促進か、のいずれかある。 前にも述べられていたことであるが、まず協働行為における目的の二重性が確認される。 協働的な目的と個人的な目的の二重性を帯びる。 さらに、協働的なレベルでの目的は、動機の直接的達成をめざすものと、迂回的行為をなすものの2種類に分かれることが確認される。 協働システムの行為においては、この直接的行為の目的と迂回的行為の目的は入り交じっているが、分析的にはわけた方がよいとする。 そして、後者の協働システムを促進するという目的をめざす行為について、各要因への働きかけについて検討がなされる。 物的要因への働きかけ 協働の可能性の増大のための物的要因への働きかけとしては、自然環境の意図的変化、つまり建設や、機械の発明などが挙げられる。 生物的要因への働きかけ 教育訓練、機会の専門化(熟練、技能の蓄積)。 このプロセスについては、「科学的管理」とよばれたものや会計のようなものを除いてあまり科学的研究がなされていない 最後の社会的要因については、はっきりとは言っていないが、管理職能のはたすべき重要な目的ということになるだろう。 この協働の有効性について、バーナードは次のように述べる: 協働の目的は非人格的なもの(non-personal)であり、全体としての協働システムの目標であることは明らかである。 したがって、いかなる場合にも有効性のいかんは、また全体としての協働システムによってなんらかの方法で決定されるべきものである。 この決定の基礎は、おこなわれた行為 およびそれによって得られた客観的結果が、個人的動機を満たすに必要な諸力や物を協働システムのために十分に確保したかどうかであろう。 ここで、バーナードは、単に協働の目的の達成の度合いだけでなく、関与者の個人的動機を満たすことの必要性も挙げている点に注意が必要である。 動機を満たしたかどうかは能率の問題であるが、能率を確保するだけの成果を生み出したかどうかは有効性の問題になるわけである。 また、協働の究極の目的が個人的動機の満足であるならば、目的の達成よりも満足(能率)が重要ということになるが、協働の維持という点で目的の達成が重要であることを言う: ……、調整された行為の継続には、ある目的の達成とか、それが達成されそうだという信念とかが必要であろう。 かように所与の目的の達成はそれ自体としては必ずしも必要ではないが、協働を活動的にしておくためには必要である。 この観点からみれば、有効性とは許容されうる最小限の有効性である。 したがって、できもしないことをしようとすれば、必ず協働の破壊あるいは失敗におわることがわかるだろう。 目的は達成できる/達成できそうだからこそ協働を生み出すわけで、その「達成できそう」という最低限の部分の確保(このままやればなんとかできそうだという感触?)を確保することが重要だというわけである。 これに続けて、個人的行為の有効性と協働の有効性について述べている。 もし個人の有効性を評価するのであるならば、他の人々の行為が不変であるという仮定において、「微分的な意味(in a differential sense)」でしか言えない。 ただし、課題として割り当てられた個人的目的があった場合には、それに対しては有効的であったかどうかという評価は可能である。 各個人は、協働が自分にとって能率的でなければ協働を止めるだろう。 その意味で、「協働システムの能率とは、それが提供する個人的満足によって自己を維持する能力である」と言える。 つまり、個人の負担と個人の満足の均衡の問題ということになるとして、この均衡がいかに達成されるかについて論を進める。 この生産成果は、物質的なものの場合もあるし、社会的なものの場合もあり、また双方の場合もある。 協働的努力がうけねばならない制約は、能率的なシステムの場合でさえも、物質的利益と社会的利益の提供が限られているということである。 したがって能率は、一部は協働システムにおける分配プロセスに依存している。 ここでバーナードは面白いことを言っている。 つまり、個人にとって、負担と利益が均衡するだけであれば、満足は生み出さない。 何らかの「剰余」があって、はじめて交換は満足を生み出す。 「個人にとって、能率とは満足のいく交換である。 かくして協働のプロセスには、満足のいく交換のプロセスも含まれる」。 もちろん、ここでいう剰余は物質的な量の問題だけではない。 たとえば協働に参与することが変化をもたらすこと等も含まれる。 このように、能率の確保のためには、各人に満足を与えられるようなものの生産の問題と、その分配(と動機への働きかけ)が重要だということになる。 その目的は個人の満足であり、その能率は、結果として環境全体の歴史を変えることを必要とする。 協働システムは、その環境の物的、生物的、社会的な構成要因(components)の変化によって、このことを行うのである。 以上で5章の論述は終わり、この後、第1部の要約がなされている。 第1部の要約 バーナード自身による本質的なものの要約なので、彼の言葉をそのまま引いておく。 1:人間、選択、目的、戦略的要因 個々の人間は限られた選択力をもっている。 同時に彼は全体情況の諸要因の合成物であるとともに、それらの要因によって強く制約される。 彼は動機をもち、目的を立てて、それらをなし遂げようとする。 その場合の方法は、全体情況のなかで特定の一要因もしくは一組の要因を選び、これらの要因に働きかけることによって情況を変えることである。 これらの要因は、目的の観点からは制約的要因であり、したがって戦略的な攻撃目標である。 The individual human being possesses a limited power of choice. At the same time he is a resultant of, and is narrowly limited by, the factors of the total situation. He has motives, arrives at purposes, and wills to accomplish them. His method is to select a particular factor or set of factors in the total situation and to change the situation by operations on these factors. There are, from the viewpoint of purpose, the limiting factors; and are the strategic points of attack. 2:制約の克服、協働 各人の情況における最も重要な制約的要因のなかには、その人自身がもつ生物的な制約がある。 これらの制約を克服する最も有効な方法はつねに協働という方法であり、そのためには集団的、つまり非個人的な目的を採用することが必要である。 この目的に関連する情況は無数の要因からなり、それらは制約的なものと非制約的なものとに識別されなければならない。 Among the most important limiting factors in the situation of each individual are his own biological limitations. This requires the adoption of a group, or non-personal purpose. The situation with reference to such a purpose is composed of innumerable factors, which must be discriminated as limiting or non-limiting factors. 3:協働における社会的要因の発生と制約への転化 協働は全体情況の社会的側面であり、また社会的要因が協働から生ずる。 この要因はやがてどんな情況においても制約的要因となる。 このことは、つぎの二つの考察から明らかである。 a 相互作用のプロセスは、ちょうど物的操作が発見されたり工夫されねばならないと同様に、発見され工夫されねばならない。 b 相互作用は協働参加者の動機や関心を変化させるものである。 These factors may be in turn the limiting factors of any situation. 4:有効性と能率 協働の永続性は、協働の a 有効性と b 能率、という二つの条件に依存する。 有効性は社会的、非人格的な性格の協働目的の達成に関連する。 能率は個人的動機の満足に関連し、本質的にパーソナルなものである。 有効性のテストは共通目的の達成であり、したがってそれは測定される。 能率のテストは協働するに足る個人的意思を引き出すことである。 Efficiency relates to the satisfaction of individual motives, and is personal in character. The test of effectiveness is the accomplishment of a common purpose or purposes; effectiveness can be measured. 5:協働の存続 それゆえ協働の存続は、つぎのような相互に関連し依存する二種のプロセスにかかっている。 a 環境との関連における協働のシステム全体に関するプロセス、 b 個人間に満足を創造したり分配したりすることに関するプロセス。 6:管理者の職能 協働の不安定や失敗は、これらのプロセスの欠陥から別々に生ずるとともに、各プロセスの組み合わせの欠陥からも生ずる。 管理者の諸職能は、これらのプロセスの有効な適応を確保するという職能である。 The functions of the executive are those of securing the effective adaptation of these processes. 第2部 公式組織の理論と構造(The Theory and Structure of Formal Organizations) 第6章 公式組織の定義(The Definition of Formal Organization) まず協働システムと組織との関係について、次のように言う: 協働システムとは、少なくとも一つの明確な目的のために二人以上の人々が協働することによって、特殊のシステム的な関係にある物的、生物的、個人的、社会的構成要素の複合体である。 ここから明らかなように、バーナードは協働を行っている様々な要素を含んだものを協働システムとし、その中の協働そのものを組織として押さえている。 これを踏まえて、以下、まず組織の本質とは何かを精緻化していく。 第1節 定義の展開(Development of the definition) 協働システムは様々なものがあるが、多くの協働システムに共通してみられるものを、組織として取りだすとする。 協働システム一般に斉一性があるならば、それらすべてに共通な特定の側面、または部分のなかにも斉一性がみられることは明らかである。 したがって協働システムを有効に研究するためには、これらの側面を他のものからひきはなして、その性格を明らかにすることが必要となる。 この共通な側面を「組織」と呼ぼう。 Effective study of them will therefore require the isolation of definition of these aspects. We shall name one common aspect "organization. " 協働システムの多様性をもたらすものは、物的環境、社会的環境、個人、その他の諸要因の差異である。 バーナードはこれらの要因を検討して、すべて、組織からは除外する。 ここで注目するべきなのは、個人(人間)を除外するという点である。 人間の集まりは集団(group)という概念で押さえることができるわけだが、この概念は曖昧な部分が多すぎるとバーナードは言う。 そして、以下のように集団の概念でとらえるべき本質は相互作用だとする: 社会的概念としての集団が通用するのは、集団内の人々相互間の重要な関係が個人のシステム的な相互作用の関係とみなされるという事実のためである。 おのおのの協働的集団において、人々の協働行為は調整される。 だから協働システムとの関連から、すなわち社会的な意味で集団という言葉が用いられる場合に、「集団」概念の基礎となると思われるのは、事実上は 相互作用のシステムなのである。 また、たとえばメンバーという人であっても、一日の行為の多くは所属集団とは関係ない行為である。 また、人の交代もある。 あるいはメンバーでなくても協働に関係する人々の行為も少なくない。 そうしたことから、バーナードはメンバーとしての人そのものは組織には含まれないとするのである。 組織の定義のなかに人を含めることは、物的環境を含める場合と同様に、ここでもまた特定の場合には非常に有効であるかもしれないが、一般的目的からは限られた意義しかもたないこととなる。 そして、人間をその構成要素から外した組織の概念を定義するならば、以下のようになるだろうとする: ……、組織とは 意識的に調整された人間の活動や諸力のシステムと定義される。 この定義によれば、具体的協働システムにみられる物的環境や社会的環境にもとづく多様性、および人間そのもの、あるいは人間がこのようなシステムに貢献する基礎に由来する多様性のすべてが、組織にとって外的な事実や要因の地位に追放され、かくして抽出された組織は、あらゆる協働システムに共通する協働システムの一側面であることが明白となる。 このような組織の定義は、協働システムのかなり限定された一側面を捉えたものであるので、具体的状況関する議論での有効性は限られるかもしれないが、しかし、この定義によって分析を行うことで、協働システムの一般原則に到達できるとする。 そして、この『経営者の役割』における中心仮説であるとして、以下のように組織の定義を述べるのである。 協働システムの経験を分析するために最も有効な概念が、公式組織を 二人以上の人々の意識的に調整された活動や諸力のシステムと定義することのうちに具現しているということこそ、本書の中心的仮説である。 ここで「組織の定義」=「公式組織の定義」になっている。 「公式」の意味については、何の説明や導入も、この時点ではない。 バーナードにとっては、組織とは公式組織なのである。 さて、このように組織を定義することが有効である理由として以下の2点を挙げる:• この定義の組織は、変数が少なく、有効に研究できるから、広範な具体的状況に妥当する概念である• この概念的枠組みと他のシステムとの間の関係が有効かつ有用に定式化されるから ただし、先の定義の文章の中でも「中心的仮説」と述べていたように、あくまでも分析ツールとして役に立つかどうかが重要な点となる。 この点について、以下のようにバーナードは述べる: 組織に関するかかる概念的枠組みを最終的にテストするものは、それを用いることによって、人々の間に、協働を有効的、意識的に促進したり操作できるかどうか、すなわちこの分野における有能な人々の予測能力を実際に増大できるかどうかにある。 このような組織の概念は、指導者や管理者の行動のうちに内在し、さまざまな協働的事業における彼らの行動にみられる斉一性を説明するものであり、またそれを明確に定式化して展開すれば、さまざまな分野の経験を共通な言葉に翻訳し、活用することができるようになるということこそ、本書が展開しようとする前提なのである。 バーナードが自らの組織概念をどのような概念であると考えていたのかということについては、後で取り上げる「組織の概念」という論文(『組織と管理』に収められている)で詳しく語っている。 第2節 抽象的システムとしての公式組織の諸側面(Aspects of Formal Organization as Abstract Systems) 組織の定義に続いて、組織に関連する諸問題を取り上げていく。 通常、組織に関係する人々によって組織というシステムを象徴するということが行われている。 しかしこの書物では通常、理解をいっそうはっきりさせ、一貫した概念的枠組を保つために、「メンバー」を「貢献者」という語に置きかえ、組織を構成する活動を「貢献」に置きかえるが、まだ熟さない語法であるかもしれない。 " Usually, however, in this book, in the interest of clearer understanding and of a consistent conceptual scheme, I shall use the more awkward plan of substituting "contributors" for "members," and "contributions" for the activities constituting organization; ここでバーナードは、組織に関与する人々を捉える概念として、メンバーではなく、貢献者という概念(および貢献という概念)を導入する。 この貢献者は、組織という協働のシステムに関わる活動の提供者であり、その点で、メンバーよりも広い範囲の人々を含む概念である。 同様に、「「貢献」は「メンバーであること」や「メンバーとしての活動」よりも、より広義の用語であることが注意されねばならない」。 メンバーではなく貢献者という概念を立てたことで、バーナードの組織論は、社会的な諸活動のなかで存立するシステムとしての組織(この後で論じられるように諸システムの階層性の中にある組織というシステムという見方)を捉えることが可能になったと言うことができる。 しかしながら、メンバーという概念を、狭い、限定的で、慣習的な概念として退けたことによって、組織の編成・管理におけるメンバーシップの機能や意義といった問題はバーナードの組織論からは消えることになる。 この点で、組織は諸活動のシステムでありながら、それを編成し維持していくには、メンバーという人間の囲い込み(メディウムとしての再領土化)が鍵になるというのがルーマンの公式組織論とは大きくたもとを分かつ。 この定義をとれば、関連するあらゆる現象が有効に説明されるし、また現在の知識や経験がこの考えと一致するというのが、われわれのとる仮説である。 この部分については、バーナードは、具体的な人間(パーソン)や行動の産物と組織とを混同しないようにと注をつけている。 少し長いが、引いておく。 人間(パーソン)は、組織という場を占有する組織力の客観的源泉である。 その力は、人間にのみ存在するエネルギーから由来する。 この力は、一定の条件が場のなかで生ずる場合にのみ組織力となり、言語、動作のような一定の現象によってのみ立証され、かかる行為にもとづく具体的結果によって推論される。 しかし人間にせよ、またその客観的結果にせよ、それ自体が組織ではない。 もしそれらが組織として扱われたら、組織という現象を説明するに際して矛盾と不適切を生ずる。 Persons are the objective sources of the organization forces which occupy the organization field. These forces derive from energies that are found only in persons. They become organization forces only when certain conditions obtain within the field, and are evidenced only by certain phenomena such as words and other action, or are inferred by concrete results imputed to such action. But neither the persons nor the objective results are themselves the organization. If they are treated as if they were, inconsistencies and inadequacies of explanation of phenomena ensue. 組織を構成する行為自体は物的なものではないが、組織には法人格が与えられたり、あるいは活動の記録が重要だったりするために物的な次元で組織をとらえがちになるが、「物体はつねに環境や協働システムの一部ではあっても、けっして組織の一部ではない」ことが確認される。 続いて、まず組織を構成する行為が、メンバーや従業員の行為にとどまらないことが述べられる。 組織力の証拠である行為には、あらゆる貢献の行為やエネルギーの収受が含まれるから、商品を購入する顧客、原材料の提供者、資本を提供する投資家もまた貢献者となる。 このように貢献者が広い範囲の関与者を捉える概念であり、そのような貢献者の貢献が組織を成り立たせるという枠組みになっていることが、社会的責任など(お望みなら生態系まで含めて環境問題も)を論じる際には有効になるということはできる。 このように広範な人々の行為が組織を成り立たせるわけであるが、その行為は非人格的なものであることが確認される: ……、われわれが「組織」と名付けるシステムは、人間の活動で構成される一つのシステムである。 これらの活動を一つのシステムたらしめるものは、さまざまな人間の努力がここで調整されるということである。 この理由から、これらの活動の重要な諸側面は人格的なものではない。 その様態、程度、時間はいずれも、システムによって決められる。 したがって、われわれが調整された人間努力のシステムを取り扱うという場合には、たとえ人間が行為の担い手ではあっても、協働システムの研究にとって重要な側面では、その行為は人格的なものではないことを意味する。 その性格はそのシステムの要求によって、あるいはそのシステムにとってもっとも重要なものによって、決められるのである。 The system to which we give the name "organization" is a system composed of the activities of human beings. For this reason their significant aspects are not personal. They are determined by the system either as to manner, or degree, or time. Its character is determined by the requirements of the system, or of whatever dominates the system. (強調は田中) 諸行為が、組織を構成する行為としての貢献というものになるのは、あくまでも組織というシステムが、自らの要素として行為の様態を規定するからである。 つまり、組織というシステムは、自らの要素である貢献を自ら規定する=生産するものである。 貢献が貢献足りうるのは、行為者個人の意図や意思の反映ではないという点で、貢献という行為は非人格的なものなわけである。 このあたりは、作動における閉鎖性というオートポイエーシスなどの議論にも繋げられる論になっている。 われわれの目的からすれば、 システムとは、各部分がそこに含まれる他の部分とある重要な方法で関連をもつがゆえに全体として扱われるべきあるものである、ということができよう。 何が重要かということは、特定の目的のために、あるいは特定の観点から、規定された秩序によって決定される。 したがって、ある部分と、他の一つあるいはすべての部分との関係にある変化が起こる場合には、そのシステムにも変化が起こり、一つの新しいシステムとなるか、または同じシステムの新しい状態となる。 For our purposes we may say that a system is something which must be treated as a whole because each part is related to every other part included in it in a significant way. What is significant is determined by order as defined for a particular purpose, or from a particular point of view, such that if there is a change in the relationship of one part to any or all of the others, there is a change in the system. It then either becomes a new system or a new state of the system. (強調は田中) 部分間の特別な関係によって全体になっているもの、というスタティックなシステム観にはなっている。 個と全体という視点が入り込んでいることにも注意が必要だろう。 続けて、システムというものは、通常、階層性をなしているという点に議論は進む。 たとえば、システムは、部分の数が増えてくると、部分システムを形成する。 あるいは地球は太陽系、さらには宇宙の下位システムである。 このように考えると、現実のシステムというものは、諸システムが階層をなしているなかに存在し、関心の限定によって一つのシステムとして取り出されているわけである。 組織も同様であるとバーナードは述べる: まず第一に各組織は、われわれがこれまで「協働システム」と呼んできたより大きなシステムの一構成要素であり、物的システム、社会的システム、生物的システム、および人間などは、協働システムの他の構成要素である。 さらにまた、たいていの公式組織は、より大きな組織システムのなかに含まれる部分システムである。 最も包括的な公式組織は、通常「社会」と名付けられる非公式な、不確実な、漠然たる、方向の定まっていないシステムの中に包含されている(The most comprehensive formal organizations are included in an informal, indefinite, nebulous, and undirected system usually named a "society. 社会という非公式なシステムの中に、包括的な公式組織が存在し、その中の下位システムとして、各公式組織が存在し…… という階層的なシステムで社会をとらえているわけである。 問題は「全体は部分の合計以上のものであるか、システムはその構成要素のたんなる集合と考えられるべきものか」といった、組織は部分の総和を超えた創発性をもちうるか、ということである。 当然のごとく?、バーナードは新しいものが創発するという: 本書を貫く見解は、たとえば5人の努力が一つのシステム、すなわち組織に調整される場合には、5人の努力の合計にあらわれるものとは、質および量において大きいか、小さいか、または異なる、 何かまったく新しいものが作り出されるということである(there is created something new in the world)。 貢献という要素はシステムである組織が規定するものである、という先のバーナードの論から言えば、そもそも組織の要素になっていない行為の「合計」と、貢献のシステムを比較すること自体が「間違った問」ではないかとも言えるのだが、全体=システムと個=貢献=行為という枠組みが設定されていることによって、そのあたりが見えないのだとも言える。 このように全体の創発性とくれば、お約束の「生命」が出てくるわけである。 一方、時間的広がりについては、「時間的関係および継続性は組織の基本的側面である」点が確認される。 「人間の行動はこれらのシステムの構成要素であるが、その人間はたえず変わるが、組織は存続する」。 組織とは時間的な継続性をもつものである。 ただし、時間的な連続性の点では、活動が一切行われない休止期間もありうるものであることが述べられる。 第7章 公式組織の理論(The Theory of Formal Organization) この章の冒頭部分で「組織の3要素」が定義される: 組織は、 1 相互に意思を伝達できる人々がおり、 2 それらの人々は行為を貢献しようとする意欲をもって、 3 共通目的の達成をめざすときに、成立する。 したがって、組織の要素は、 1 コミュニケーション、 2 貢献意欲、 3 共通目的である。 これらの要素は組織成立にあたって必要にして十分な条件であり、かようなすべての組織にみられるものである。 An organization comes into being when 1 there are persons able to communicate with each other 2 who are willing to contribute action 3 to accomplish a common purpose. The elements of an organization are therefore 1 communication; 2 willingness to serve; and 3 common purpose. These elements are necessary and sufficient conditions initially, and they are found in all such organizations. 単に日本語の語感の問題ではあるが、田中は、この「要素」という言葉に違和感を感じている。 組織の構成要素(component)と混同されやすいからである。 ここでいう要素(Element)は、言うなれば組織が成立し存立し続ける(いったん組織が成立した後であっても必要なものである)ための条件である。 それゆえ、田中は自分の講義では「組織の存立条件」という言葉を使っている。 組織の成立の条件に続けて、存続の条件がまとめられる。 組織が存続するためには、 有効性または 能率のいずれかが必要であり、組織の寿命が長くなればなるほど双方がいっそう必要となる。 組織の生命力は、協働システムに諸力を貢献しようとする個人の意欲のいかんにかかっており、この意欲には、目的が遂行できるという信念が必要である。 実際に目的が達成されそうにもないと思われれば、この信念は消えてしまう。 したがって有効性がなくなると、貢献意欲は消滅する。 意欲の継続性はまた目的を遂行する過程において各貢献者が得る満足に依存する。 そして、組織の成立と存続について均衡の観点から要約される。 長くなるが、ある意味でバーナードの組織管理のエッセンスが詰まっている部分なので引用しておく: 要するに、組織がまず成立するのは、前述の3要素をその時の外部事情に適するように結合することができるかどうかにかかっている。 組織の存続は、そのシステムの均衡を維持しうるか否かに依存する。 この均衡は第1次的には内的なものであり、各要素間の釣合いの問題であるが、究極的基本的には、このシステムとそれに外的な全体情況との均衡の問題である。 この外的均衡はそのうちに二つの条件を含む。 すなわち第一の条件は組織の有効性であり、それは環境状況に対して組織目的が適切か否かの問題である。 第二は組織の能率であり、それは組織と個人との間の相互交換の問題である。 このように前述の諸要素は、それぞれ外的要因とともに変化し、また同時に相互依存的である。 したがってこれらの諸要素によって構成されるシステムが均衡を維持する、すなわち存続し、生存するためには、一つのものが変わればそれを償う変化が他のものにも起こらなければならない( Thus the elements stated will each vary with external factors, and they are at the same time interdependent; when one is varied compensating variations must occur in the other if the system of which they are components is to remain in equilibrium, that is, is to persist or survive. 細かいことを言うようだが、この文中では、バーナードは先ほどの要素を「組織(システム)を構成するもの(components)」と言っているのだが、それはやはりおかしいと田中は考える。 以下、この章では、組織の3要素のそれぞれと有効性と能率についての論究が展開される。 定義上、人間をはなれて組織はありえない。 しかし、組織を構成するものとして扱うべきは人間ではなくて、人々の用役、行為、行動、または影響力であるということを強く主張してきたから、協働システムに対して努力を貢献しようとする人々の 意欲が不可欠なものであることは明らかである。 さらに貢献意欲というものの特質を以下のように述べる。 ここでいう意欲とは、克己、人格的行動の自由の放棄、人格的行為の非人格化を意味する。 その結果は努力の凝集であり、結合である。 その直接の原因は「結合」に必要な気持ちである。 これなくしては、協働への貢献としての持続的な人格的努力はありえない。 Willingness, in the present connection, means self-abnegation, the surrender of control of personal conduct, the de-personalization of personal action. Its effect is cohesion of effort, a sticking together. Its immediate cause is the disposition necessary to "sticking together. この部分を読むと、協働における行為は、まったくの従属的な行為を強いられるかのように読める。 確かに、行為を貢献として意味付け調整するのはシステムであり、貢献は非人格的なものであるが、その行為自体のコントロールを全く個人が行わないわけではないはずだ。 自己裁量の余地は、どんな使役にあっても、かならず存在する。 その点からすれば、田中は、自己の自由にならない(自己の意志でコントロールできるわけではない)意味付けをなされ調整された貢献は非人格的なものだが、行動は自己のコントロール下にあるはずで、貢献意欲は「自己の行動の人格的統制を放棄する」というのは極論であり、そのように捉えてしまうのは間違いではないかと考える。 さて、このように貢献意欲を確認した上で、バーナードは、協働への貢献ということに関して、「 現代社会における多数の人々はつねにマイナスの側にいる。 したがって貢献者となりうる人々のうちでも、実際はほんの少数の者だけが積極的意欲をもつにすぎない(強調はバーナード)」と述べる。 それゆえに、「なんらかの公式的協働システムに対する潜在的貢献者の総意欲は不安定なものである」ので、組織の側から、何らかの誘因を提供することで貢献意欲を引き出す必要があることになる。 このように、個人の観点からすると、貢献意欲とは、個人的欲求と嫌悪との合成であり、組織の観点からすると、提供する客観的誘因と課する負担との合成である。 しかしこの純結果の尺度は、まったく個人的、人格的、主観的なものである。 したがって組織は、個人の動機と、それを満たす諸誘因に依存することとなる。 目的(Purpose) まず、目的(目標)というものが組織には自明のものであるとする。 他人と交わりたいという漠然たる感情や欲望の場合は別として、協働意欲は協働の目標なしには発展しえない。 このような目標のない場合には、いかなる特定の努力が個々人に必要なのか、また多くの場合に彼らがどんな満足を期待しうるかを、知ることも予想することもできない。 このような目標をわれわれは組織の目的と呼ぶ。 目的をもつことが必要なのは自明のことであり、「システム」「調整」「協働」という言葉のなかに含意されている。 このように、目標というものが必要不可欠なものだと言うわけだが、揚げ足取りのようだが、もし目的がなくても「いかなる特定の努力が個々人に必要なのか、また多くの場合に彼らがどんな満足を期待しうるかを」知ることや予想できればよいのではないか?と突っ込むことはできる。 つまり、目的がなくとも調整が可能であればよいのではないか、ということである。 調整のメカニズムは必要だが、それを目的に限定してしまうことは、組織概念を狭めてしまうように田中には思われる(もちろん、多くの組織において、目的が一番手っ取り早い調整の軸として作動することは言うまでもないが)。 目的というものは、ただ存在すればいいものではない。 「目的が与えられても、目的が組織を構成する努力を提供している人々によって容認されるのでなければ、協働的活動を鼓舞することにはならない。 したがって本来、目的の容認と協働意欲とは同時的なのである」。 ここでバーナードは協働目的は、協働する人々の観点からすると、協働的側面と主観的側面の二面があるとする。 協働を行っている人は「組織全体にとっての意味」を考えるわけである。 しかしながら、協働を行っている者が協働の一環として目的を解釈したものと、客観的な目的というものは、かならずしも一致するわけではない。 客観的目的と、各人によって協働的に見られた目的との間の相違が大きくなると、協働が分裂する場合もある。 そこで協働の参加者が、協働の対象としての目的の理解にはなはだしい差異があると認められない場合にのみ、目的は協働システムの一要素として役立ちうるといえよう。 共通の目的が本当に存在しているという信念をうえつけることが基本的な管理職能である。 厳密に言うと組織の目的は、個人にとっては直接にはいかなる意味ももたない。 協働的にみられた目的の側面に言及するとき、われわれは個人の 組織人格をほのめかしている。 多くの場合において、二つの人格は 非常に明白に展開する(clearly developed)ので、両者はまったく明白なものとなる。 組織人格と個人人格の二重性は、組織目的と個人動機の区別の必要性に結びつく。 われわれは組織目的と個人動機を明らかに区別しなければならない。 組織を考える場合、共通の目的と個人の動機が同一であるとか、同一であるべきだということがしばしば想定される。 ……、けっしてそうではない。 現代の諸条件のもとではおそらくありそうにも思われない。 個人的動機は必然的に内的、人格的、主観的なものである。 共通の目的は、その個人的解釈が主観的なものであろうとも、必ず外的、非人格的、客観的なものである。 目的についての論述の最後に、組織は、確立後も目的を変更する場合があることが述べられる。 組織は自らを永続させる傾向があり、存続しようと努力してその存在理由を変えることもある。 この点に管理職能の重要な側面があることを、のちにもっと明らかにしよう。 コミュニケーション(Communication) まず組織を現実のシステムにするのはコミュニケーションであることが確認される。 これらの潜在的なものを動的ならしめるプロセスがコミュニケーションである。 続けてコミュニケーションの実際についての考察が行われるのだが、この中でバーナードは、「以心伝心(observational feeling)」の重要性を言う: ……、原始的な社会でも、高度に複雑な社会でも、ともに「以心伝心」は同じく重要なコミュニケーションの一側面であるが、まだ一般には認められていないように思う。 言葉では表現できない場合や、言葉を使う人々の言語能力に差異があるためにそれらが必要である。 特別な経験や訓練および個人的な交際の継続に際して非常に大きな要素となるのは、たんに情況とか条件のみでなく、その 意向をも言葉を通じないで理解する能力である。 以心伝心と訳されている observational feeling というのは、バーナードの造語である。 バーナードは、この用語によって、神秘的な能力のようなものを言おうとしているのではなく、コミュニケーションの進行の中で、関与している人々が言語を介さずとも感得しあうようなこと(共鳴のようなこと)を言おうとしている。 最近よく使われる言い方なら「空気を読む」である。 コミュニケーションの考察は、以下のように、組織の理論の中心にコミュニケーションの問題があることが述べられて終わる。 組織の構造、広さ、範囲は、ほとんどまったくコミュニケーション技術によって決定されるから、組織の理論をつきつめていけば、コミュニケーションが中心的地位を占めることとなる。 さらにまた組織内の多くの専門化は、本質的にはコミュニケーションの必要性のために生じ、またそのために維持されているのである。 組織の継続は、その目的を遂行する能力に依存する。 これはその行為の適切さと環境の条件の双方に依存する。 換言すれば、有効性は主として技術的プロセスの問題である。 続けて、有効性の逆説に触れる。 組織は、その目的を達成できない場合には崩壊するに違いないが、またその目的を達成することによって自ら解体する。 非常に多くのうまくいっている組織が成立し、やがてこの理由のために消滅していく。 したがって、たいていの継続的組織は、新しい目的をくりかえし採用する必要がある。 実際の組織においては、具体的な遂行目的とは別に、一般的な目的というものが定式化されるため、たえず新しい目的を採用していても気がつかないことがある。 「われわれは通常一般的目的をもって、本当の目的たる具体的な遂行の代わりに考えているのである」。 したがって有効的でないことが組織の瓦解の真の原因ではあるが、新しい目的の採用をもたらす決定をしないことも同様の結果となる。 それゆえ、目的の一般化は、実は毎日の出来事によってのみ具体的に規定されうるのではあるが、永続的な組織のきわめて重要な側面なのである。 目的の一般化が、変動や適応のための柔軟性を確保するわけである。 組織の能率(Organization Efficiency) 組織にとっての能率とは「協働システムに必要な個人的貢献の確保に関する能率」ということになる。 この能率に関しては、組織というレベルにおいては「存続という絶対的なテストのみが客観的に重要な意味をもち、個々の能率を比較する基礎は存在しない」。 貢献は誘因によって引き出されるわけであるから、「組織の能率とは、そのシステムの均衡を維持するに足るだけの有効な誘因を提供する能力である」ということになる。 「組織の生命力を維持するのは、この意味での能率であり、物質的生産性の意味での能率ではない」。 誘因としては非物質的なもの、非経済的なものがありうるし、実際、重要である。 「非経済的誘因が多くの場合に有効性に不可欠であるばかりでなく、基本的な能率に不可欠なものである」。 第8章 複合公式組織の構造(The Structure of Complex Formal Organization) この章では、組織論(システム論)的な関心からは興味を引く論述が少ないので、おおはばに端折って紹介しておく。 組織は単位組織から生まれ、規模が拡大するにつれて、複合組織へと分化していくことが論じられる。 複合化した組織では、管理組織を上層としてもつことになる。 こうした構造的特徴は、コミュニケーションの必要性が組織の規模に及ぼす影響によって決定される。 第9章 非公式組織およびその公式組織との関係(Informal Organizations and Their Relation to Formal Organizations) 第2部の最後に、非公式組織についての論考が展開される。 非公式組織とは何か(What Informal Organization are) 非公式組織とは、個人的な接触や相互作用の総合、およびすぐ前に述べたような人々の集団の連結を意味する。 定義上、共通ないし共同の目的は除外されているが、それにもかかわらず、重要な性格をもつ共通ないし共同の結果がそのような組織から生ずるのである。 By informal organization I mean the aggregate of the personal contacts and interactions and associated groupings of people that I have just described. Thought common or joint purposes are excluded by definition, common or joint results of important character nevertheless come from such organization. 続けて、「非公式組織とは不明確なものであり、むしろきまった構造をもたず、はっきりとした下部単位をもたないということである」と述べて、不定形の定まりがたいものであること、「密度の程度の様々な、形のない集合体」であるという。 そして、「われわれの目的にとっては、どんな公式組織にもそれに関連して非公式組織があるということが重要である」。 非公式組織の諸結果(Consequences of Informal Organizations) 非公式組織は次の2種類の結果をもたらすとバーナードは言う:• 一定の態度、理解、慣習、習慣、制度を確立するということ• 公式組織の発生条件を創造するということ まず、最初の点については、公式組織との関連で以下のことが述べられる。 第一の点は、公式組織への注意が適切でないために、公式組織のプロセスから直接生ずる公式制度と、非公式組織のプロセスから生ずる非公式制度との間にかなりの混同があるということである。 ……、非公式に発展してきた制度と公式組織の慣行によって精緻化された制度との間には相違があり、相互に他を修正しあう作用がある。 非公式制度は、個人の無意識的あるいは非理性的な行為や習慣に対応し、公式制度は、個人の思考と計算にもとづく行為と政策に対応するのである。 公式組織の行為は相対的にはきわめて論理的である。 このように公式/非公式と論理的・意識的/非論理的・無意識的を重ねるのは、はたして意味があるのかと感じられなくもない。 目的の有無という差異から目的合理性/非・目的合理性はよいとしても、合理/非合理まで引っ張ってどうするのよ、と田中は考える。 続いて、非公式組織は公式組織に先行するものだということが確認される。 非公式な結合関係が、公式組織に必ず先行する条件であることは明らかである。 共通目的の受容、コミュニケーション、協働意欲のある心的状態の達成、これらを可能ならしめるためには事前の接触と予備的な相互作用が必要である。 このように、非公式的な関係がある状況から公式組織が生まれてくるわけでが、非公式組織の側から見ても、公式組織が生まれることが必要であるという議論がなされる。 われわれの目的にとって重要な問題は、非公式組織はどうしてもある程度の公式組織を必要とし、おそらく公式組織が出現しなければ非公式組織は永続も発展もできないということである。 この点についてバーナードは、人間が関係を長続きさせるためには、目的、明確な行為対象が必要であるという議論を展開する。 人間は一般に能動的であり、活動目的を求めることは周知のところである。 ……、活動がなければ社会的接触を継続することが一般に不可能になることが観察される。 人は なにか行為をしなくてはおれないように思われる。 組織の存続がたんなる結合による満足に依存し、そのような結合がすべての参加者の共通で唯一の動機である場合も多い。 しかしかかる場合でも、たとえ目的があまり重要でなくても、またつまらないものであっても、なんらかの目的、すなわち具体的な行為対象がつねに存在するものである。 具体的な行為対象が社会的満足のためには必要である。 一団の人々がいる場合、行為のなされる必要性があるのはほとんど絶対的と言ってもよいほどである。 また、逆に多様な行為の可能性がある複雑な情況においても、選択不能による麻痺状態(バーナードはデュルケイムのアノミーを引いている)が生ずる。 「これは行為の有効な規範の欠如による社会的行為の個人的麻痺状態であると考えられる」。 さらに、個人の社会的結合をもとめる行為は、かならずローカルなものとして行われるという点が論じられる。 個人の諸活動は必ず局地的な直接的集団の内部で行われる。 人間の、ある大規模組織、すなわち国家とか教会に対する関係は、かならず彼が 直接に接触している集団を通じて生ずる。 社会的活動は遠隔的な行為ではありえない。 個人の本質的欲求は社会的結合であり、この欲求が個人間における局地的活動、すなわち直接的相互作用を求めることにとなる。 社会的結合がなければ人間性は失われる。 したくなければしなくてもすむやっかいな日常の仕事や危険な仕事でも、すすんでがまんしようとするのも、社会的統合感を維持するために、いかなる犠牲を払っても行為をするこのような必要性によって説明される。 The activities of individuals necessarily take place within local immediate groups. The relation of a man to a large organization, or to his nation, or to his church, is necessarily through those with whom he is in immediate contact. Social activities cannot be action at a distance. The essential need of the individual is association, and that requires local activity or immediate interaction between individuals. Without it the man is lost. The willingness of men to endure onerous routine and dangerous tasks which they could avoid is explained by this necessity for action at all costs in order to maintain the sense of social integration. 最後に、人間にとっての目的協働の意味が確認される。 「目的的協働は人の論理的能力や科学的能力のおもなはけ口であり、またその能力の主な源泉でもある。 以上を踏まえて、「小さい永続的非公式組織でも大きい集合体でも、いずれも、つねにかなり多くの公式組織を持つようである」ことが確認される。 さらに、全体社会にとっての公式組織の意義が述べられる: 公式組織は全体社会の明確な構造素材であり、それによって個人的結合関係が継続性を保ちうるに十分な一貫性を与えられる支柱でもある。 公式組織がその領域を拡大するのに伴い、全体社会の凝集性を拡充せしめ、またそれを必要とすることになる。 They are the poles around which personal associations are given sufficient consistency to retain continuity. As formal organization becomes extended in scope it permits and requires an expansion of societal cohesiveness. There appear to be no societies which in fact are not completely structured by formal organizations - beginning with families and ending in great complexes of states and religions. このような公式組織の意義を押さえた上で、非公式組織との関係が以下のように語られる。 ……、全体社会は公式組織によって構造化され、公式組織は非公式組織によって活気づけられ、条件づけられるのである。 確言しうることは、一方がなくては他方が存在しえないということである。 もし一方が挫折すれば他方が解体する。 公式組織がまったく存在しなければ、ほぼ完全な個人主義の状態、および無秩序の状態となるだろう。 公式組織による非公式組織の創造(The Creation of Informal by Formal Organization) 「公式組織が作用し始めると、それは非公式組織を創造し、必要とする」。 公式組織と結合した非公式組織は、多くの場合、経営者、政治家、ならびに他の組織の首脳部によって直観的に理解されてはいるが、私の知っているかぎりでは、いままで経営組織の生産レベルだけについて明確に研究されてきたにすぎない。 実際、非公式組織は、公式組織に関連すると否とにかかわらず、日常の結合関係というあたりまえの身近な経験の一部であるから、それに含まれる特定の相互作用の一部のみを見ているだけで非公式組織には気がついていないのである( In fact, informal organization is so much a part of our matter-of-course intimate experience of everyday association, either in connection with formal organizations or not, that we are unaware of it, seeing only a part of the specific interactions involved. しかし、公式あるいは特定の活動との関連における人々の結合関係には、それに付随的な相互作用が必ず含まれていることは明らかである。 公式組織における非公式組織の機能(The Functions of Informal in Formal Organizations) 公式組織における非公式組織の機能として、バーナードは3つの機能をあげる。 コミュニケーション機能• 貢献意欲と客観的権威の安定とを調整することによって公式組織の凝集性を維持する機能• 自律的人格保持の感覚、自尊心および自主的選択力を維持すること 非公式組織の相互作用は、一定の非人格的目的や組織表現としての権威によっては意識的に支配されていないから、その相互作用は明らかに選択力によって特徴づけられており、しばしば人間的な態度を強める機会を提供するのである( Since the interactions of informal organization are not consciously dominated by a given impersonal objective or by authority as the organization expression, the interactions are apparently characterized by choice, and furnish the opportunities often for reinforcement of personal attitudes. この機能は公式組織にとって有害であると考えられることが多いけれども、個性を分裂させがちな公式組織の影響に対して各人の個性を維持する手段とみなされるべきものである。 非公式組織については、「世界政府の計画化について」(『組織と管理』に収められている)の中でも詳しく論じている。 後ほど、この論文も見ておくことにしよう。 第3部 公式組織の諸要素(The Elements of Formal Organizations) 第3部から、いわゆる管理論に入っていく。 組織の諸側面を捉えて、そこに潜む管理の問題点が論じられていく。 もちろん、そこでは、組織に関する論述も入ってはくる。 そこで、以下においては、章の内容を順に追っていくのではなく、われわれの関心である組織に関係する発言を中心に引用していくという形で見ていくことにする。 ただし、権威と意思決定に関する部分は、組織論的に重要な章であるので、細かくみることにしたい。 第10章 専門化の基礎と種類(The Base and Kinds of Specifications) この章で論じられるのは、分業あるいは組織構造の問題である。 この分化は、共通目的を下位の目的へと分化させる(精緻化、具体化)ことであると同時に、意思決定の分化でもあるということになる。 社会結合の専門化 組織の分化は、基本的には合目的な分化であるが、同時に、バーナードの言う非公式的な側面においても分化が起きることを述べている。 組織のあるところには、必ず、私が「社会結合の専門化」と呼ぶものがただちに始まる。 これは協働的努力における人間間の反復的な相互調整を意味する。 …… 組織関係のなかで作業をする人間に関する専門化と、組織自体に関する専門化を、私は「社会結合の専門化」と名付けた。 この専門化が存在し、機能していることは、通常、「彼らはいっしょに働くのに慣れている」とか「いっしょに働いてはじめてその人がわかる」とか「彼は部下をよく知っている」とかで表現されている。 すべての、かなり安定した、あるいは永続性のある単位組織は、それ自体一つの社会結合の専門化である。 この意味での専門化は、管理組織の最も重要な側面の一つであり、第十五章でかなりくわしく述べるつもりである。 これはまた第九章で述べたような小さい非公式組織の一側面でもある。 専門化の一般的命題 複合的な組織における組織全体の有効性は、どのような分化=複合化を行うかという点での工夫が大きく影響する。 バーナードは、専門化のイノベーションの工夫という言葉を使っている。 1 協働システムの有効性は、ほとんどまったく専門化の 革新( innovations)の工夫、あるいはその採用に依存している。 2 専門化の第一義的側面は、 目的の分析、すなわち一般的目的を中間目的—それらはより遠い目標の手段となる—に分析することである。 その時の具体的な情況に即したものというのは、その都度、その組織が新しく作り出す(考案する)しかないという点で、イノベーションなのだということであろう。 組織構造(専門化)に一般的・汎用的な解など存在しないということだと考えることができる。 組織と専門化 専門化は共通目的を下位の細部目的へと精緻化すること、つまりは目的の分析であり、それは同時に情況(環境)の分析であるということである。 重要な側面では、「組織」と「専門化」とは同意語である。 協働の目的は専門化なしには成就されない。 そこに含まれる調整は組織の機能面である。 この機能は、目的をなし遂げうるような仕方で、個人の努力を協働情況全体の諸条件に相関させることである。 この相関をなし遂げる方法は、目的を諸部分ないし細部諸目的に分析することであり、それらを適当な順序で達成すれば最終目的達成が可能となるであろう。 また全体情況を諸部分に分析することであり、それらは組織活動によって細部諸目的と特定的に調整されることになるであろう。 もしこれらのことがなし遂げられれば、最終目的達成の手段となる。 このプロセスの性質と専門化の機能とは、管理作用の理解にきわめて重要である。 目的の精緻化=環境の分析については、後の「機会主義の理論」でくわしく展開されている。 一般目的の受容・理解 複合体の 一般目的を理解することや受容することは必須のものではない。 それは細部目的を説明し、あるいは受入れやすいようにするのに望ましいだろうし、またつねにでなくとも通常は望ましいものである。 しかし一般に複合組織は、その 一般目的を完全に理解せず、また完全に受容していないところに特徴がある。 かように中隊が軍隊全体の特定目的を知ることは必須ではなく、また通常不可能であるが、しかし中隊はそれ自体の 一つの目的を知り、受入れることが必須である。 そうでなければそれは機能しえない。 主として重要なのは目的の知的理解よりも、むしろ行動根拠に対する信念である。 「理解」はただそれだけでは、むしろ麻痺させ分裂させる要素である。 組織の存立条件として共通目的は、実際の個々具体的な活動のレベルは、細部目的を根拠づけ正当化するものとして機能すればよいということになる。 極論すれば、自分たちのやってること(細部目的のもとでの活動)は意味があるということを保証するものとして共通目的は機能することが重要であるということになる。 ルーマンのいうシステム分化である。 しかし、バーナードの場合は、組織の複合化あるいは専門化の問題として、この点が厳密に論じられることはない。 第11章 誘因の経済(The Economy of Incentives) バーナードの組織を構成する「貢献」は、組織が個人に与える誘因との交換の形で発生するものである。 つまり、組織と個人とは、誘因と貢献の交換関係になる。 この交換について論じたのがこの章である。 なお、バーナードの場合、貢献は、その都度、誘因との交換として出てくるという図式があり、誘因が効果がなくなると即座に貢献者の貢献はなくなると考えられている。 この枠組では、長期的なコミットメントのようなものが捉えきれないはずであり、関与者がきわめて流動的な組織ということになる。 後で見る「組織の概念」で、顧客との関係もこの章で展開する誘因の経済で分析できることを述べているのだが、逆にいうと、顧客との関係(その都度の交換関係)が、すべての貢献者と組織の関係の基本とされているともいえる。 貢献と誘因 すでに述べたように、組織の本質的要素は、人々が快くそれぞれの努力を協働システムへ貢献しようとする意欲である。 協働の力は、……、結局のところ、個人の協働しようとする意欲と協働システムの努力を貢献しようとする意欲とに依存している。 組織のエネルギーを形作る個人的努力の貢献は、誘因によって人々が提供するものである。 自己保存や自己満足というような利己的動機は支配的な力をもっているから、一般に組織は、これらの動機を満足させうるときにのみ、もしそれができなければ、こんどはこれらの動機を変更しうるときにのみ、存続しうるのである。 個人はつねに組織における基本的な戦略要因である。 個人の来歴または義務にかかわりなく、個人は協働するよう誘引されねばならない。 そうでなければ協働はありえないのである。 誘因の問題の困難 ……、いかなる目的をもつものであっても、あらゆる型の組織において、必要な貢献を獲得し、維持していくためには、いくつかの誘因と ある程度の説得がともに必要である。 まれな場合は例外として、誘因提供の手段を得、誘因の対立をさけ、効果的な説得努力をすることなどがもともと非常に困難であり、また効果的でしかも実行可能な誘因と説得の明確な組み合わせを決めることが、非常にデリケートな問題であることもまた明らかであろう。 かような誘因システムに関連する問題は、主として、組織の存続途上におけるそのときどきの戦略的要因の問題となる。 誘因システムは協働システムの要素のうちでおそらく最も不安定であることももちろん事実である。 なぜなら外的環境がたえず物質的誘因の可能性に影響を与えるからであり、また人間の動機が同様に非常に変動的だからである。 この固有の不安定性から生ずる二つの一般的な帰結に注意する必要がある。 第一は、あらゆる組織がもつ固有の拡張傾向である。 誘因、とくに威信、社会結合の誇り、ならびに共同体の満足などに関する誘因を維持するためには、組織の成長、拡大、拡張が必要である。 ……、成長はあらゆる種類の効果的な誘因を実現させる機会を提供するように思われる。 ……、第二のより重要な結果は、組織が必要な人員を充足するときに見られる高度に選択的な性格である。 ……、その主要な方法は差別的誘因の維持である。 ……、誘因の分配は、いろいろな貢献の価値と有効性に釣り合ったものでなければならないのである。 第12章 権威の理論(The Theory of Authority) この章は、バーナード組織論の一つのキーである「権威受容説」(権限受容説)が述べられた章である。 組織論的に重要な論点を含む章なのでくわしく見ていくことにする。 この章での「権威」の問題とは、命令・指示の受容の問題である。 「他人の言うことに従う」という関係がいかに成立するのかという問題である。 つまり、コミュニケーションにおいて「他人の指示に従わせるもの(指示を受容させるもの)」が権威とされる。 バーナードがここで展開する権威の議論は、権力(受け手の意思にそむいて/意思には関係なく、命令が受容されること)の問題と重なるものではあるが、権力論は展開されていない。 あくまでも、自由意思をもち選択できる立場にある者が、他人の指示命令を受入れて従うのは、どのようなメカニズムが働いているのかを明らかにすることにある。 *なお、Authority は「権威」「権限」などの複数の訳語があてられる言葉であるが、バーナードの翻訳の場合(バーナード研究者が訳す場合)、「権威」と訳すのが一般的になっている。 ちなみに、飯野春樹氏は、受容説にたつ考え方の場合は権威、権力図式の場合は権限と使い分けられていた。 権威に関して一般的に観察されるはなはだ重要な事実は、特定の場合にいかに権威に効果がないかということである。 権威に効果がないために、その違反が当然のこととみなされ、その包含する意味が考慮されもしない。 これらの観察の意味するところは、ただ、特定の法律が個々の市民によって遵守されるかどうかは、その特殊情況化では、その人自身が決定するということである。 これが個人的責任をうんぬんする場合の意味である。 また個人が教会のどの戒律に違反するかは、一定の時と所では、その人によって決定されるということである。 すなわちこれが道徳的責任の意味である。 ここで権威とは、公式組織におけるコミュニケーション(命令)の性格であって、それによって組織の貢献者ないし「メンバー」が、コミュニケーションを、自己の貢献する行為を支配するものとして、すなわち、組織に関してその人がなすこと、あるいはなすべからざることを支配し、あるいは決定するものとして、受容するのである。 Authority is the character of a communication order in a formal organization by virtue of which it is accepted by a contributor to or "member" of the organization as governing the action he contributes; that is, as governing or determining what he does or is not to do so far as the organization is concerned. この定義によれば、権威には二つの側面がある。 第一は主観的、人格的なものであり、コミュニケーションを権威あるものとして 受容することであり、この節で述べようとする面である。 第二は客観的側面—受容されるコミュニケーションのもつべき性格—であり、次節「調整システム」において述べる面である。 " 権威は受容されることに根拠づけられるということ(権威受容説)と、コミュニケーションが受容されるための条件(組織内のコミュニケーションはどうあるべきか、という問題)の二つの側面を考えることになるわけである。 それは行為の基礎と認められる。 かかるコミュニケーションの不服従は、彼に対するコミュニケーションの権威の否定である。 それゆえこの定義では、一つの命令が権威を持つかどうかの意思決定は受令者の側にあり、「権威者」すなわち発令者の側にあるのではない。 人はつぎの4条件が同時に満たされたときにはじめてコミュニケーションを権威あるものとして受容でき、また受容するだろう。 すなわち、 a コミュニケーションを理解でき、また実際に理解すること、 b 意思決定に当り、コミュニケーションが組織目的と矛盾しないと信ずること、 c 意思決定に当り、コミュニケーションが自己の個人的利害と両立しうると信ずること、 d その人は精神的にも肉体的もコミュニケーションに従いうること、がこれである。 The necessity of the assent of the individual to establish authority for him is inescapable. A person can and will accept a communication as authoritative only when four conditions simultaneously obtain: a he can and does understand the communication; b at the time of his decision, he believes that it is not inconsistent with the purpose of the organization; c at the time of his decision, he believes it to be compatible with his personal interest as a whole; and d he is able mentally and physically to comply with it. c に関連して: 純誘因が存在するということが、 どんな命令でも権威あるものとして受容する唯一の理由である。 The existence of a net inducement is the only reason for accepting any order as having authority. このように、基本的には、受容者の意思決定の問題であり、また、受容の最終根拠は、受容者にとってそうすることにメリットがあるからとされる。 しかし、現実において、この不確定性が問題にならないような理由があることをバーナードは述べる。 もし原則的にも実際的にも権威の決定が下位の個人にあるのならば、われわれの見るような重要かつ永続的な協働の確保が以下にして可能なのか。 それは個人の意思決定が次の条件のもとでおこなわれるから可能である。 a 永続的な組織において慎重に発令される命令は、通常前述の4条件と一致している。 b おのおのの個人には「無関心圏(zone of indifference)」が存在し、その圏内では、命令はその権威の有無を意識的に反問されることなく受容しうる。 c 集団として組織に貢献している人々の利害は、個人の主観あるいは態度に、この無関心圏の安定性をある程度まで維持するような影響を与えることとなる。 a は実際に受け手が受容するかどうかの意思決定を行っても受容されるようになっているということであるが、 b と c は、受け手が受容に関する意思決定を行わないようになっているということである。 そのようなことが行われている理由として「無関心圏」というものを持ち出してくる。 もし合理的に考えて実行可能な行為命令をすべて、受令者の受容可能順に並べるとすれば、第一には明らかに受入れられないもの、すなわち、確実に服従されない命令がいくつかあり、つぎに、多かれ少なかれ中立線上にあるもの、すなわち、どうにか受入れられるか、あるいは受入れられないかの瀬戸際にある第二のグループがあり、最後に、問題なく受入れうる第三のグループがあると考えられよう。 この最後のグループのものが「無関心圏」内にある。 受令者はこの圏内にある命令はこれを受入れるのであって、権威の問題に関するかぎり、命令がなんであるかについて比較的に無関心である。 このような命令は組織と関係を持ったとき、すでの当初から一般に予期された範囲内にある( Such an order lies within the range that in a general way was anticipated at time of undertaking the connection with organization. 無関心圏は、組織に対する個人の執着を決定する誘因が、負担と犠牲をどの程度超過するかに応じて、広くもなり狭くもなる。 したがって受入れられる命令の範囲は、組織に貢献するよう、かろうじて誘引されている人々にとっては非常に限定されたものとなるであろう。 予期によって当然と受容される命令・指示群があることを無関心圏という概念で説明しているが、この無関心圏は誘因との関係で生じてくるとされる。 バーナードの組織論においては、メンバーというものの意義が重要視されない。 そのため、メンバーとしての参加が一般的な命令・指示の受容の承認を確保するという点が見えなくなっている。 もちろん、メンバーでなくとも、無条件的な受容は起こりうることには違いない。 たとえば一般的な消費者の立場で商品を買う場合を考えてみれば、特定のメーカーの新製品であれば信頼して買うといったことがありうる。 しかし、組織の運用にとって重要なのは、各人に無関心圏があるかどうかということではなく、各人に無関心圏があることを前提としてよいかどうかにある。 メンバー制の一つのポイントは、この、「みなしてよい」とできることにある。 この点で、無関心圏だけでは、受容による確定のもつ「不安定さ」を回避することはできない。 そこで、バーナードは、上位権威というものをフィクションとして導入する。 したがって、いつでも大部分の貢献者間には、自分らにとって無関心圏にある命令は、すべてその権威を維持しようとする積極的な個人的関心がある。 この関心の維持は主として非公式組織の機能である。 それは一般に「世論」「組織意見」「兵卒感情」「集団態度」などの名で呼ばれている。 かように 非公式に成立した共同体の共通感は、人々の態度に影響を与え、彼らに、無関心圏あるいはそれに近いところにある権威を個人として問題にすることを忌避させる。 この共通感を形式的に述べたものが、権威は上から下へ下降し、一般的なものから特殊なものにいたるというフィクションである。 このフィクションは、ただ、上位者からの命令を受入れやすくするような予想を個人間に確立し、人格的屈従感を招くこともなく、また同僚との人格的、個人的地位を失うこともなく、こういう命令に黙従することを可能にするにすぎないものである。 かように貢献者たちが、コミュニケーションの権威を維持しようとするのは、……、また共同体意識がたいていの貢献者の動機に影響を与える場合がほとんどだからである。 この意識の実行の用具が上位権威というフィクションであって、それが人格的な問題を非人格的に扱うことを一般に可能としている。 (強調は田中) 非公式組織の作用による仲間意識、一体感によって、命令・指示の非選択的(非意思決定的)受容が行われるようになり、こうした情況を正当化する概念装置=フィクションが上位権威だとされるわけである。 この概念装置が組織の実際的な運用においては不可欠なものになるわけである。 たいていの人々は、普通ならば受入れる個人的責任を好まないから、権威を認めようとする。 責任を受入れにくい立場にあるときには、とくにそうである。 組織運営上の実際的困難は、自己および他人の組織行為に対する責任を必要以上に引き受けたがることにあるのではなく、むしろ組織における自己の行為に対する責任を取りたがらないことにある。 2 このフィクションから、重要なのは組織の利益だという非人格的な見方が生ずる。 コミュニケーションは組織努力あるいは組織行為でなければ、権威をもつものではない。 ……、人は「公的に」行動するときにのみ権威を行使しうるという場合の意味である。 それゆえ、コミュニケーションの公的性格を確立するため、コミュニケーションについての時間、場所、服装、儀式ならびに認証などが重要だとみなされる。 これらの慣行は、権威が「公式組織における」コミュニケーションに関連するという所説を確証する。 ……、権威はあくまでも明確に組織されたシステムの 内部にある何ものかと関連している。 ここで、はじめて、貢献者とメンバーの差異にバーナードは言及することになる。 このような事情は、組織コミュニケーションにおける権威の性格はコミュニケーションを受ける人々の 同意の可能性にあるという事実から生ずる。 だからただコミュニケーションはただ組織の貢献者、すなわち「メンバー」に送られるのみである。 すべての権威あるコミュニケーションは公的であり、組織行為のみに関係するから、その行動が協働システムの中に含まれない人々にとっては意味をもたない。 もっとも、上の文章では組織の貢献者=メンバーという言い方になっている点は、彼の貢献者の定義からはおかしいということになる。 その後に出てくる、協働システムに含まれる人々というのが、おそらくバーナードのメンバーの理解を一番素直に表現したものであろうが、それにしても、協働システムのなかにある組織の貢献者と、協働システムの中のメンバーとの食い違いは残る。 このように、権威(協働のためのコミュニケーションの受容の問題)を考えるかぎりは、コミュニケーションの関与者としてメンバーに話を限定しないといけないことは確認されるわけである。 上位権威(=権威は命令・指示の送り手に認められるものである)のもとでの権威、客観的権威をバーナードは2種類に分ける。 この権威はかなりの程度までその職位にある人の個人的能力とは別のものである。 これが 職位の権威(authority of position)である。 彼らの知識と理解力とは職位とは無関係に尊敬をかちうる。 ただこれだけの理由で、人は組織において彼らの言葉に権威を認める。 これが リーダーシップの権威(authority of leadership)である。 リーダーシップの権威が職位の権威と組み合わされると、組織とすでにきまった関係をもつ人は一般に権威を認め、はるか無関心圏外にある命令でもこれを受入れるようになる。 かような信頼が生じてくれば、命令への服従それ自体が一つの誘因にさえなるであろう。 それにもかかわらず、権威の決定は個人の手中にある。 たとえば、権威あるこれらの「職位」を占める人が現実に不適格であり、状況を知らず、当然伝えられるべきことをコミュニケーションしない時、あるいはリーダーが(主としてその具体的行為により)、リーダーシップというものが個人の組織との関係の内在する本質的な性格に依存していることを暗黙のうちにも認識しえないときには、権威はもしそれがテストされれば消滅するであろう。 たいていの場合、組織努力に関して助言を与える真のリーダーは、責任ある職位を受入れることが必要である。 なぜなら、組織権威の基礎として彼らの言うことに価値があるためには、彼らの特別な知識あるいは判断が抽象的な問題にではなく、具体的な 組織行為に適用しうるのだということがわかっていなければならないからである。 言い換えれば、彼らは個人人格とは別に、リーダーシップの影響力に相応した組織人格をもっている。 一般的に表現すれば、相応した責任を伴わぬ権威はありえないということである。 もっと正確に表現すれば、組織職位にある人がその意思決定に関して主観的に組織に支配されていなければ、客観的権威は彼らに帰属させえないということである。 ここに見られる「意思決定に関して主観的に組織に支配されて(いる)」ことというのは、バーナードが管理者に求める責任、要件の本質的なものの一つである。 上位権威のフィクションを支持するに十分であるとともに、無関心圏を実現せしめる客観的権威の維持は、組織におけるコミュニケーション・システムの運用いかんに依存するといってよかろう。 コミュニケーション・システムの機能は権威ある職位に対し適切な情報を提供し、発令に適切な便宜を供給することである。 かように権威は、一方では、個人の協働的態度に依存し、他方では、組織のコミュニケーション・システムに依存する。 後者なくして前者は維持され得ない。 今述べているコミュニケーション・システムは、専門的な言葉で表現すれば、しばしば「権限のライン」[命令系統]として知られているものである。 a コミュニケーションの経路は明確に知らされていなければならない。• b 客観的権威は組織のあらゆるメンバーに対する明瞭な公式的コミュニケーション経路を必要とする。• c コミュニケーションのラインは、できるかで直接的か、または短くなければならない。• d 完全なコミュニケーション・ラインが通常は用いられなければならない。• e コミュニケーションのセンターとしての役目を果たす人々、すなわち役員や監督者の能力は適確でなければならない。• f コミュニケーションのラインは組織が機能する間は中断されてはならない。• g すべてのコミュニケーションは認証されなければならない。 第3節 法律的概念との調和(Reconciliation with Legalistic Conceptions) この節では法律的概念を権威受容説的に検討することが行われるが、内容の検討は省略する。 この説の最後に、権威の問題が、単なるコミュニケーションの問題に限るものではなく、組織の本質である調整にかかわるものであることが述べられて、この章がくくられる。 しかしもっと徹底的に考えれば、コミュニケーション、権威、専門化および目的は、すべて調整に包含される側面であることがわかるであろう。 すべてのコミュニケーションは、目的の定式化、行為を調整する命令のコミュニケーションに関係し、それゆえにコミュニケーションは協働意欲をもつ人々とのコミュニケーション能力に依存している。 権威は協働システムの要求に服従しようとする個人の意欲と能力に与えられた別名である。 権威は、一方では協働システムの、他方では個人の、技術的、社会的制約から生じてくる。 したがって社会における権威の状態は、個人の発展と社会の技術的、社会的情況との双方の尺度である。 第13章 意思決定の環境(The Environment of Decision) まず、バーナードの考える意思決定とは何かが論じられていく。 一般に前者の行為に先行するプロセスは、どのようなものであれ、最後には「意思決定」と名付けうるものに帰着する。 すなわち達成されるべき目的と用いられるべき手段とがこれである。 一般的に、個人の行う重要な 組織行為は、それが個人的でない目的を達成する手段の意識的な選択を必要とし、したがって直接的には自動的、反応的な反作用ではありえないというような意味で、やはりおそらく論理的であることが観察されよう。 こういっても、組織には無意識的、自動的、反応的な行為が含まれていないという意味ではない。 反対に第9章で非公式組織を論じたときに示したように、非論理的組織プロセスは公式組織にとって不可欠である。 さらに組織に参加している個人の行為は、その多くが習慣的、反復的であり、また 組織設計(organization design)……によってたんに反応的であることもある。 しかしここで重要なことは、個人行為とは対照的に、組織行為が最高の程度まで論理的プロセスによって特徴づけられねばならないし、また特徴づけうるということ、および意思決定が組織においてどこまで専門化されるかということである。 このように、組織行動は、意識的・論理的に行われるもので、最終的に意思決定に帰着するものであることが確認される。 バーナードの場合、計算による選択も意思決定に含まれている。 意思決定(決定)というものを厳密に考えると、論理的に選択肢が選ばれるものは意思決定ではない。 決定しなくても答えは明らかだからだ。 しかし、バーナードの場合は、意思決定をそのような特別な行為として位置づけるものではない。 むしろ、意識的行動(意図的行動といった方がよいかもしれないが)は、ある種の選択的行動であり、その意味において意思決定的であると考えているようである。 組織の構成要素であるすべての努力、すなわちすべての調整された協働努力は、二つの意思決定行為を含むであろう。 第一のものは、個人的選択の問題としてかかる努力を貢献するかどうかに関する当該個人の意思決定である。 それはその個人が組織の貢献者となるかどうか、あるいはそれを続けるかどうかを決定する反復的な個人的意思決定のプロセスである。 この意思決定行為はすでにみたように周到な注意を要する問題であるが、第6章で規定したごとく組織を構成する諸努力のシステムの 外部にあるものである。 意思決定の第二の型は、個人的結果に直接の、あるいは特定の関係をもたないものであるが、意思決定を必要としているその努力を、それが組織に与える効果と、それが組織目的にもつ関係の見地から、非人格的なものとしてみるものである。 この第二の意思決定行為は、直接的な意味では、個人によってなされることが多いが、その意図と効果においては非人格的かつ組織的なものである。 上の文章に「反復的な個人的意思決定のプロセス」という表現があるように、バーナードの貢献者は、貢献するかどうかの意思決定を頻繁におこなっているものとされている。 この点は、先ほどの権威のところでも触れたように、顧客のような存在であれば該当するが、従業員の場合は、該当するとは言い難い。 もちろん、反復的というのは、行為のその都度という意味ではないから、従業員であっても貢献するかどうかの意思決定は潜在的にはつねに行いうるという点で、従業員であってもあてはまるであろう。 しかし、従業員(メンバー)は、入会/脱退の意思決定を特別な意思決定と位置づけることによって作動するメカニズムであり、貢献するかどうかの意思決定を普段は行わないようにするところに意味がある。 このように、バーナードは貢献者と組織という枠組で見るがゆえに、メンバー制と意思決定の関係はすっぽりと見えなくなっているわけである。 第1節 意思決定の機因(The Occasions of Decision) この節では、どのような場合に意思決定が発生するかを論じている。 組織論的には、以下の引用で述べられている、組織的な意思決定の連鎖と、そこでの管理的意思決定の意義の話が重要。 しかし 総体的重要性の見地からすれば、主要な関心を要するのは管理者の意思決定ではなく、非管理的な組織参加者の意思決定である。 まさしくこれらの理由によって、多くの管理的意思決定が必要なのである。 というのは、管理的意思決定は、他の人々の間の適切な意思決定を伴う正しい行為の促進に関連するからである。 ……、行為の調整には、効果的な組織行為が行われる「現場」での、反復的な組織的意思決定が必要だということである。 第2節 意思決定の証拠(The Evidences of Decision) ここでは、意思決定が行われたことがつかまえにくいということが述べられる。 こうした点も、決定はかならず後の決定から参照可能になることとする決定をコミュニケーションでとらえていくルーマンの決定とは大きくことなる。 困ったことには、たいていの管理的意思決定は、それ自体の直接的証拠を生まず、それを知るにはただ間接的証拠の積み重ねによらなければならない。 管理的意思決定は、それがたんに一要素でしかない全般的結果から推察されねばならず、また漠然たる性格の特徴的なあらわれから推察されねばならない。 なお、バーナードは、決定しないことの重要性も論じている。 管理論的に面白いので引用しておく。 これはきわめてよくある意思決定であり、ある観点から見れば、たぶん最も重要な意思決定である。 管理的意思決定の真髄とは、現在適切でない問題を決定しないこと、機熟せずしては決定しないこと、実行しえない決定をしないこと、そして他の人がなすべき決定をしないことである。 一つは積極的意思決定、すなわち、あることをなし、行為を指示し、行為を中止し、行為をさせない決定であり、他は消極的意思決定で、決定しないことの決定である。 双方とも避けえないものであるが、消極的意思決定は、しばしば主として無意識的で、相対的に非論理的で、「本能的」なものであり、「良識」である。 第3節 環境の性質(The Nature of The Environment) この節では、意思決定が、目的と状況というものを互いに精緻化していく分析のプロセスであることが述べられる。 物的世界、社会的世界、外的事物と諸力、そのときの情況 意思決定の機能はこの二つの部分の間の関係を調整することである。 この調整は、目的を変更するか、あるいは目的を除いた環境を変えるか、のいずれかによって達成される。 目的は、それ以外の環境の部分になんらかの意味を与えるために必須のものであることに注意しなければならない。 環境は理解されうるためには、 ある見地から観察されねばならない。 ……、このあらゆる物の集合をなにか意味のあるものにするには、区別のための基準、すなわちこれとあれとを適当であり、関係があり、関心あるものとして拾い上げるための基準を必要とする。 この基準とは、 この情況ではあることがなされるべきであり、あるいはなされるべきでないということである。 その情況は、 この観点からみると促進的であり、あるいは妨害的であり、あるいは中立的である。 そしてこの区別のための基準となるのが、達成されるべき目的であり、目標であり、対象なのである。 しかしながら目的そのものは、ある環境における場合を除いては意味をもたない。 目的は環境に即してのみ決定しうるのである。 目的がいったん形成されると、それがただちにその環境をより明確な形にするのに役立つ。 そしてその結果、ただちに目的はより特定的な形になる。 このように目的をたえず精緻化してゆくことは、ますます詳細になってゆく反復的意思決定の効果であり、そして最後には細部目的がそのまま同時に目的の達成となるのである。 かように相前後しながら、目的と環境とは、継続的な意思決定を通じて、一歩一歩、ますます詳細に相互反応をする。 (環境は)目的に照らして識別されるとき以外は、その多様性も変化も意味をもたない。 (目的に照らした)識別は、いっさいのものを次の二つに分ける。 すなわち、取るに足らず、無関係で、たんなる背景にすぎぬ事実と、明らかに目的達成を促進し、あるいは阻害する事実を含む部分とである。 この識別がなされるやいなや意思決定は発芽状態となり、いろいろの代替案のなかから選択する状態になる。 意思決定が環境を取り扱うよりは目的を変更することにあるならば、親目的は子を生まぬことに注意されたい。 親目的は放棄され、新しい目的が選ばれ、それらによって その目的に照らした 新しい環境が創造される。 第14章 機会主義の理論(The Theory of Opportunism) この章では、意思決定のプロセスの原則が論じられる。 意思決定は、先に確認されたように、最終的には、環境を変えるか、目的を変えるか、どちらかの行為に行き着く。

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組織の3要素とは何か?組織論上の課題とあわせてできるだけわかりやすく説明してみましたがいかがでしょうか?

チェスター バーナード

人気アイドルグループのSMAPが年内の解散を発表した。 25年以上も芸能界を牽引してきたグループだけに世間に対する影響は大きく、解散理由をめぐって様々なゴシップが飛び交っている。 そこで、チェスター・バーナードの『経営者の役割』という組織論の古典的名著を参照に、組織論の観点からスマップの解散について考えてみたい。 まず、前提を確認しよう。 そもそも「組織」とは何だろうか。 例えば、青信号で一斉に横断歩道を渡っている人々はどうか。 皆、信号を渡るという目的に向かって行動を共にしている。 信号が点滅すれば皆急ぎ、渡る際は互いに邪魔にならないように配慮をする。 あるいは、気の合う仲間で集った浜辺のバーベキューはどうだろうか。 参加する人々はバーベキューをするという目的を共にしている。 そして、それぞれの役割分担があって、準備や調理が進められる。 バーベキューを終える際には何らかの宣言(そろそろ片づけて帰ろう)をして解散する。 バーナードは組織を次のように定義する。 組織とは「意識的で、計画的で、目的を持つような人々相互間の協働」であり、「二人以上の人々の意識的に調整された活動や諸力のシステム」である。 先の例をこの定義に照らすと、浜辺のバーベキューは組織であり、青信号を渡る人々は組織でないということになる。 では、SMAPは組織だろうか。 もちろん組織だろう。 ただし、バーナードによる組織の定義には、メンバーであるヒトを含まない。 したがって、組織としてのSMAPにはキムタクや中居君などのメンバーは含まれない。 あくまでも組織とは「人間の活動で構成される一つのシステム」(バーナード)なのである。 話が少々分かりにくいかもしれないので、SMAP以外の例を挙げてみよう。 例えば「AKB48」はどうか。 メンバーが入れ替わっても組織として継続している。 つまり、メンバーが固定していることは、組織の条件ではない。 それゆえ、SMAPを組織と捉えた場合、例えば「キムタク1人残して4人を入れ替える」ことで新生SMAPを結成するという選択肢も存在する。 しかし、事務所がそれを選ばなかったというだけのことである。 では、そもそも組織が成立するためにはどのような条件が必要なのだろうか。 今のSMAPには、何が欠けてしまったのだろうか。 組織が成立するための要件 バーナードによると、組織を成立させる要素は3つある。 相互に意思を伝達できる人々がおり、それらの人々は行為を貢献しようとする意欲をもって、共通目的の達成をめざすときに、組織は成立する。 要するに、 1 コミュニケーション、 2 貢献意欲、 3 共通目的の3つが組織成立の要件である。 しかし、組織が成立したとしても存続することは簡単ではない。 なぜなら、組織の内的・外的環境は常に変化するからである。 ちなみに、SMAPよりも前に80年代以降に活躍した代表的なグループとしては、「光GENJI」(1987~1994)、「しぶがき隊」(1982~88)などが挙げられるが、アイドルグループとしての人気低下やメンバーのソロ活動が増えるに伴い、数年で解散している。 その点で、SMAPが25年以上も存続したことは、アイドルグループとして驚異的である。 SMAPが組織として長期間持続できた理由としては、時代に合わせて常に新たな魅力を提供したことが大きいだろう。 しかし、それだけでは組織としてのSMAPが存続した理由を説明できない。 人気が出てソロ活動などが増えれば、組織というシステムの存続危機もまた発生しやすくなるからである。 つまり、長期的に組織を存続させるには、内的・外的環境の変化に合わせて(組織という)システムの均衡を維持することが必要になるのだ。

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