あきら 漫画 予言。 AKIRAの予言は東京オリンピックや伝染病に続いて税制改正失敗も?

AKIRAの予言は東京オリンピックや伝染病に続いて税制改正失敗も?

あきら 漫画 予言

こんにちは!そらです。 今回は、AKIRAオリンピック中止のあらすじがヤバい!新型ウイルスも予言していた!?をお届けします。 オリンピックまであと4ヶ月あまりとなりましたが、ここへ来て、オリンピックの開催が危ぶまれてきています。 なぜかというと、新型コロナウィルスの感染が世界に広がったことで死者も増え続けていることから、さらなる被害者、感染者を増やさないために延期もしくは中止が検討されているとか。 そして今、1988年に公開されたアニメ映画『AKIRA』の内容がヤバい!とSNSで話題となっているのが、映画『AKIRA』のストーリーが、今世界で現実に起こっていることに酷似しているというのです! いったいどういう内容なのでしょうか? それでは、AKIRAオリンピック中止のあらすじがヤバい!新型ウイルスも予言していた!?と題してお届けしていきます。 まだ正式な発表ではありませんので、延期の場合や予定通り開催されることもありえます。 もし、中止ということになれば、アキラのストーリーが現実となりますね! AKIRAは新型ウイルスも予言していた! 東京オリンピック中止!? AKIRAが好きな人はこの話を するとアキラ覚醒だってなるけど 実際はウィルスやら地震やら 放射能やら意図してないことが 起こりそう。 日本の企業は大打撃。 — ユウヘイ youhey69 そしてもう一つ予言が的中している!と言われていることがあります。 これは単なる偶然なのでしょうか。 2月、3月にパンデミック宣言があっても実行するか? 大金をかけたからというメンツで多くの国民の命を危険にさらすか? たのむから、オリンピックは中止してくれ。 せっかく、東京オリンピック開催が決まったのに結局開催されない事態に陥るなんてことが? まさか、アキラの世界が先を走っていて、現代がアキラに追いついて行っているのでしょうか? 半年後、東京オリンピックは開催されるのか、それとも中止か延期なのか? 新型ウイルスのコロナウイルスの感染が広がる一方で、東京オリンピックの準備は着実に進められています。 アキラのあらすじ通りにならないことを祈りたいと思います。 それでは、AKIRAオリンピック中止のあらすじがヤバい!新型ウイルスも予言していた!?を、最後までお読みいただきありがとうございました。

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AKIRA(アキラ)のネタバレ解説まとめ

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1989年8月27日に見た夢。 大きな洞窟のような場所で、顔のハッキリしない見知らぬ女性と出会う夢。 女性は何か言いたそうにしてるけど、何を言っているのかはよく聞き取れない。 こんな不思議な夢を見た一年後、散歩に行った先の公園で大きなトンネルにたどり着く。 そのトンネルは夢に見た洞窟のような場所にそっくりで、念のため写真を撮影しておいたという。 その後、なんとそのトンネルで 女性の殺人事件が発生する。 テレビでそのニュースを見てびっくり! 被害者の女性の衣服や特徴が夢の中で出会った女性とそっくりだったのだとか。 さらにこんな夢も。 見知らぬ男性と喫茶店で向かい合って話している夢だ。 「彼女、嫌いじゃないけど、恋愛感情は持てない」 というような内容の話だった。 夢を見た後日、友人から「失恋した」という電話が。 その別れ話の内容が、まさに夢で見たものと一緒! 彼女に失恋相手の男性の写真を見せてもらうと、夢で出会った男性とまったく同じだったとか。 それ以外にもクイーンのフレディが死ぬ夢を見たら、実際に亡くなってしまったという不思議な経験もしたとか。 偶然なのか正夢なのか、何らかの予言の能力があるのか…。 たつき諒先生自身は、自分に霊感なんてまったくないとおっしゃっているのだが。 漫画の前半は、そんな不思議な体験談。 問題は後半の内容だ。 大きな津波で災害が起きる夢 たつき諒先生は1981年に「 とてつもない規模の津波が押し寄せる」夢を見たという。 これがもし、未来に起きる出来事だとしたら…? 海が見渡す限り引き潮で消えてなくなる。 その後数分で、ゴゴゴゴゴゴゴという爆音と共に津波が押し寄せる。 これは1990年の時点で、想像だけではなかなか描けない表現だ。 だとしたらこれはやっぱり東日本大震災を予言していたのかというと、そうではない可能性もある。 最初に紹介した通り、「私が見た未来」の表紙では「2011年3月に大災害」と書いてある。 これが東日本大震災を予言していると話題になったわけだけれど、漫画の中ではそれに一切触れていない。 ただ「とんでもない津波が来る夢を見た」ということだけを描いている。 巨大津波が発生する時期に関するヒントは、漫画の中に2つ登場する。 9か6という数字。 夏というキーワード。 時計が5時ごろで止まっている。 つまりこの夢が未来を伝えているのなら、 巨大な津波は9が6の付く年の夏の午後5時か午前5時くらいに発生するってことになる。 もしかしたら、この夢は近い将来起きるといわれている「南海トラフ巨大地震」のことなのかも…? 最後にはこうある。 津波の原因は私にはわかりません。 2019年とか、2026年とかね。 「私が見た未来」を読む方法 私が見た未来は1999年に刊行されているけれども、すでに絶版になっている。 Amazonでも販売しているけど、その中古価格、なんと 5万円!! 日本で発売されている本や雑誌のすべてを保管しているといわれる「国会図書館」を探してもなかった。 …が、格安で読む方法があったので紹介したい。 それはドコモが提供する電子書籍サービス「 Dブック」を利用すること。 Dブックに登録すれば、「私が見た未来」全2話をたったの86円で読むことができるぞ!! (ちなみに他の漫画アプリや電子書籍サービスも調べてみたのだけれど、「私が見た未来」を提供しているのはDブックだけであった) 「私が見た未来」に50万円も出せない人は、Dブックでためしに読んでみてはいかがだろうか?? 面白いよ。

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漫画AKIRAが2020年東京オリンピック中止の予言していると話題。

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そんな昨今、 大友克洋の名作漫画『AKIRA(アキラ)』(82年に連載開始)の作中にあった、 予言めいた記述と、目の前の現実との 「奇妙な符号」に注目が集まっている。 といっても、例のあの立て看板の話ではない。 同作中に登場した看板、東京オリンピックについて「中止だ中止」と落書きされたアレを京都大学の学生らが立て看板で再現して提示し、話題となった件のことを僕は言っているわけではない。 原作漫画版の『AKIRA』には、 予言的な箇所がいくつもあったからだ(88年のアニメ映画版にも同様のシーンはあったのだが、本来的なストーリー解釈という観点から、以下、この稿では特記なき場合はすべて漫画版について述べる)。 オリンピックよりも、もっと大きな「予言」が、同作のなかにはある。 「東京が壊滅してしまう」という予言だ。 復興記念ではなく「復興する前」に引き戻される 目の前の現実の2020年の東京が、どのように壊滅してしまうのか? それは僕にはわからない。 ただひとつ、間違いなく言えることは 「オリンピックが復興の起爆剤」には、まったく「ならない」ということだ。 なるはずが、一切ない。 そもそもが、 なんの「復興」なのか? 東日本震災の被災地の復興に一切役立たないことは、いまさら僕が言うまでもない。 それどころか「そんなバクチを打とうとするから」オリンピックもろとも、 東京そのものが「ふっ飛んでしまう」……。 と、これは僕が言っている嫌みではない。 『AKIRA』の予言というのが、まさにこうしたものなのだ。 以下、ストーリーに沿って説明していこう。 作中の「東京オリンピックがあるはずだった年」も2020年。 しかし、 開催に至る直前にネオ東京はふたたび壊されてしまう。 壊滅的な、大崩壊だ。 文字どおり、市街地の大部分がビルも人もふっ飛んで、 「復興前の」灰燼へと帰してしまう。 もっとも、ここの「大崩壊」とは、作中にて描写された物理的な都市破壊のみを指すわけではない。 メタファー(暗喩)として、とらえることも可能だ。 たとえば、コロナ禍の延長線上における危機は、いままさに現在進行形だ。 これが経済的崩壊に結びつく可能性は高い。 つまり大不況、地価暴落、東京から人がいなくなる……といった形での「都市機能の崩壊」ならば、無理なく想像できることだ。 いや、いますぐにでも起こりそうだ。 ネオ東京は「新型爆弾」によって壊滅する では、『AKIRA』における重要な事象のいくつかをメタファーとして見立て、「オリンピックつながり」で現実世界と対比しながら観察していこう。 まず同作において、我々が知っている東京は1982年に 「新型爆弾」によって破滅する。 なにもかもが「ふっ飛んで」大きな穴ぼこになってしまう。 まさにその「開催直前」の2019年から『AKIRA』のストーリーは始まる。 しかし前述のとおり、オリンピックどころか、 ネオ東京そのものが崩壊してしまう。 このすさまじい「大破壊」シーンは、 単行本オリジナル版の第3巻に収録されている。 神に愛された天才としか言いようがない、大友克洋の至高の描写力によって、大胆に、また同時に微に入り細に入り、絶妙のリズムでもって「ぶち壊されていく」ネオ東京の最後の光景は、一度見たら生涯忘れ得なくて当然の凄絶なインパクトだ。 『AKIRA』第3巻(86年刊・講談社KCデラックス) 筆者が私物を撮影 一度目ではなく、真の「破滅」は二度目に訪れる この 「新型爆弾」とは、一体なんのメタファーなのか?というと、 原子爆弾ととらえるのが普通だ。 第二次大戦末期、いつまでも降伏しない大日本帝国に対して投下された「一発で都市ひとつを壊滅させる」核兵器のことを、当時の軍部が呼んだ名称が「新型爆弾」だった。 そして、1945年8月6日に広島に投下されたあと、同9日に長崎に投下される。 この二度目の投下後に、天皇はポツダム宣言の受諾を決意。 日本は敗戦する。 一発ではなく、二発も「食らってしまう」というところが、同じだ。 一度では「止まらずに」、たとえば戦中ならば、米軍が空中散布したビラなどで「警告」していたにもかかわらず、そのままの日々を過ごして……二度目の爆弾を食らう。 これが 「日本の特徴だ」というのが、『AKIRA』における新型爆弾が暗喩するものの正体だと僕は考える。 大友克洋が意識的にそう描写したのかどうかは、さして重要ではない。 クリエイターの洞察力と直感的知性の反映として、作った本人ですら想像しなかったような「意味」を、作品上に生じさせてしまうことは、よくあるものだ。 往々にしてそれは、「表の意味」の奥にあるもの、つまりメタファーとして、受け手の内部で発酵していくことになる。 そこの部分の話を、僕はしている。 「読み」の話だ。 ときどき僕は 「引き延ばされた3日間」という比喩を使う。 8月7日から、9日までの「3日間」だ。 たとえば、いま日本の原発はすべて廃棄されていない。 その予定もない。 あれほどの事故があっても「止まらない」のは、あれが「一発目」だったからだ。 次に「もう一発」あれば、きっと止まる。 つまり、いま僕らが過ごしている日常というのは「一発目と二発目のあいだ」の3日間が引き延ばされただけの、暫定的な「生の時間」にすぎない。 なぜならば いずれ、間違いなく「二発目」はあるのだから……。 一発目の「新型爆弾」で、失われた30年が始まった ごく当たり前に、こうした観念が大前提として、『AKIRA』のなかには横たわっていたのだと僕は考える。 では同作における「一発目」の新型爆弾の炸裂、これを作品後の現実世界に置き直してみた場合、なにを指すのか? 僕は バブル崩壊が正解だと考える。 「それまで」の日本は、戦後復興の長い道のりの途上だっただけなのに「すでに復興は成った」と誤解したあげくに、繁栄の日本が「このままずっと続く」などと思い込むのが主流だった。 しかし冷戦が終わり、 ハシゴが外された途端、今日にまで続く泥沼のなかへと、成す術もなく沈降していった。 むかし「政治は三流、経済一流」とうそぶいていた国が(本当にそう言っていたのだが)、どっちも三流(か、政治は五流かもしれない)となって長い。 なのに「またオリンピック」なのだから、あきれるほかない。 「二発目」が炸裂することを予想しないほうが、どうかしている。 「一発目」のバブル崩壊に匹敵するものが、すぐ眼前にあると考えるほうが、常識的だろう。 さらに、これが考えすぎであることを祈りたいのだが……ここまで書いた 「AKIRAの予言」の成就に邁進する?かのような動きが、東京の一部に見られる。 とくに、 渋谷界隈で。 neo SHIBUYA とはネオ東京なのか? 「100年に一度」の掛け声のもと再開発が進む同地区の坂の上のほう、昨年グランド・オープンした新生渋谷パルコが工事中だったころをご記憶だろうか? 工事現場のまわりを取り囲む板塀には、なんと。 そしてパルコのオープニングには、 『AKIRA』関連の展覧会もおこなわれた。 シブヤ経済新聞のページより さらに、パルコも協賛する一大「再開発」プロジェクトの愛称がなのだ。 この名称を耳にして、目にして、 「ネオ東京」を思い出さない『AKIRA』ファンは、ただのひとりもいないだろう。 渋谷駅周辺に増殖する「neo SHIBUYA」ロゴ群 撮影:堀口麻由美 前同 ゆえに僕は、首をかしげざるを得ない。 映画版を軽く観ただけだった、とか。 それにしても、 あまりにも縁起が悪い。 そのせいか、どうにも僕にはぴんと来ないのだ。 どの道路の上に立ったとしても、一直線で前方を見通すことができない位置にて、渋谷駅周辺に「これでもか」と林立させられたビル群が、この先もずっと長く立ち続けている予定だ、ということ自体が。 スクラップ&ビルドという名の、悪い冗談の果てに たとえば僕は、かつての東急文化会館はよく利用していた。 映画館はもちろん、ユーハイムや、上階の書店によく立ち寄った。 五島プラネタリウムでは、コーネリアスの特殊撮影までやらせてもらった。 しかしあの建物は、僕の知るかぎり、とくに理由がアナウンスされることもなく、ある日突然なくなった。 そして長らく、サラ地のまま残っていた(あの状態を グラウンド・ゼロと呼んでいたのは中原昌也だ)。 東急文化会館は、およそ47年にわたって、あの地にあった。 しかし僕には、100年どころか50年後に、いま新築の「これでもか」ビル群が、意気揚々と立っているという図というのは、 ちょっと想像できない。 すぐにでも、ポキポキ折れていきそうに思える。 『AKIRA』第3巻のクライマックスのように、大友克洋にしか描けない「大崩壊」が物理的に渋谷に訪れることはない、のかもしれない。 だがしかし、あの巨大ビル群を埋め尽くすほど、賃料を払ってでもビジネスをおこないたい存在が、この先50年も絶えずいると考えることのほうが「どうかしてる」と、僕には思えるのだが。 なにしろ、その最初の起爆剤だかなんだかの予定だったオリンピックがこれでは…… メタファーとしての予言が成就する可能性は高まる一方だろう。 あるいは、開催を争っていた イスタンブールにこの7年間に起こったことに近いような「ストーリー」を、これからの東京および日本、いや東アジアはくぐり抜けなければならない、のかもしれない(それはかなりやっかいだ)。 かつて僕はと題した論考およびその続編のなかで、ロンドン五輪の前年に起きた暴動を引き、日本にもなにか、その国民文化に合った形での軋轢が五輪を機に表面化することを予想した。 「これだったのか」と、いま納得し始めている。

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