水戸ホーリーホック 選手 年俸。 水戸、強化費8000万円チームの奮闘=貧乏クラブの好調を支えるもの

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水戸ホーリーホック 選手 年俸

2014年のJ2リーグは全体の4分の3余りを消化。 いよいよラストスパートが問われる季節になってきた。 「最初からスパート」状態だった湘南が早くも昇格を決める一方で、2位以下は予断を許さない状況が続いており、下位の攻防も熾烈だ。 そこで「J論」では、J2の幾つかのクラブにフォーカス。 そのラストスパートに注目する。 最後となる第5弾は、あえて成績面では振るわない水戸に登場してもらった。 クラブを取材して10年になる佐藤拓也が、成績低迷にもかかわらず経営改善を為し遂げたクラブの転機を語る。 ただ、これだけ輝かしい出来事のない20年も珍しい。 水戸を取材してきた中で忘れられない言葉がある。 それは7、8年前、Jリーグ幹部を取材した時のこと。 取材の終わりに自分が水戸を取材していることを伝えると、その幹部は少し考え込んで、「水戸をJリーグに上げたのは失敗だったね」と真面目な表情で口にしたのである。 決して水戸を非難しようとしたわけではなく、あくまでそれは心からの声のように聞こえた。 確かに「失敗」だったと言わざるを得ない。 Jリーグに昇格した00年当時、水戸はホームタウンにJリーグ基準のスタジアムを持っていない状態だった。 さらに経営においても責任企業が支えているわけではなく、初代社長の故・石山徹氏の個人の財産で支えられて運営されている状態だった。 明確な基準で審査されてライセンスが発行される今ならば、間違いなくJリーグに上がることはなかっただろう。 しかし、当時は「Jリーグの仲間を増やしていこう」という風潮があった。 周囲から後押しされてJリーグ参入を認められることとなったのだが、それからが苦しみの連続だった。 「市民クラブ」と謳いながらも水戸市に活動拠点を持たないため、ホームタウンと密接な関係を築くことができず、スタンドは毎試合閑古鳥が鳴く始末。 それゆえにスポンサーも増えず、さらに08年には宮田裕司社長(当時)の飲酒運転が発覚したことによってスポンサー離れも進み、経営難に拍車がかかった。 かつてともに経営に苦しみ、リーグ下位に低迷していたヴァンフォーレ甲府やサガン鳥栖といったチームが経営を立て直して羽ばたいていった一方、水戸はいつまでも「失敗」の烙印を消せないまま、希望を抱けない状況が続いていた。 そう話すのは08年途中から社長へ就任した沼田邦郎氏だ。 09年にケーズデンキスタジアム水戸の改修が終了し、ホームタウンに待望のスタジアムが完成したことにより風向きが変わる予兆を感じながらも、それまでの赤字経営のツケは大きく、経営改善には至らず、11年の新体制記者会見の前に「経営危機」の会見を行う「最悪のスタート」(沼田社長)を切った。 しかし、そこから見せた変化は劇的だった。 それには「3つのきっかけがあった」と沼田社長は振り返る。 一つ目は柱谷哲二監督の就任である。 かつて日本代表のキャプテンとしてチームを引っ張り、「闘将」のニックネームで親しまれた知名度抜群の監督がやってきたことにより、県内で大きな注目を集めることができた。 同年5月の高橋靖市長の就任も、確かな追い風となった。 水戸がJリーグに昇格した際、水戸市はホームタウンとして認める代わり、ホーリーホックに「資金的援助を一切認めない」という覚書の提出を求めた。 その後もそうした関係が続いていたが、高橋市長は就任する時に「水戸市を盛り上げるためにホーリーホックを利用しない手はない」と考え、覚書をなかったものとしてホーリーホックをバックアップする方針を固め、同年には出資を決定するなど、サポート体制を整えた。 そして三つ目は、東日本大震災だった。 大きな被害を受けた影響によって茨城県内の経済は滞り、さらにスポンサー離れも懸念された。 しかし、未曾有の事態の中だからこそ、クラブが大切にしたのは「市民クラブ」としての原点。 それが起死回生につながったのだ。 クラブスタッフが支援物資を届けるために県内を奔走し、選手たちは志願してボランティア活動を行うなど地域のために尽力した。 「地域のために」という理念を体現したことで一気に地域との距離が縮まった。 「経営改善計画を立てて、新たなスタートを切ろうとしたところで東日本大震災が起きた。 これはもうダメかと思いました。 どうしようと考えていたが、とにかく地域復興のために活動しようと。 我々のことよりも地域に貢献することだけを考えて活動しました。 それによって地域密着が加速したような感じがします。 柱谷哲二が来た。 そして、高橋靖市長が就任して、はじめて水戸市から出資をいただくこととなった。 ポイントは2011年。 いろんなことが、ドドドッと動き出した」と沼田社長は述懐する。 震災後、スポンサーは離れるどころか、むしろ増えていき、経営は改善されて借入金を期限内に返済することができたのである。 11年から3期連続して黒字を達成。 経営面の立て直しにも成功している。 「クラブとしては2012年からが本当のスタートだと思っています」。 沼田社長は力強い口調で言い切っている。 震災以降、ホームタウン活動は年間600回近く行っており、さらにホームゲーム前には必ず選手たちが水戸駅前でチラシを配布し、来場を呼び掛けている。 柱谷監督は継続的に子どもたちを対象にしたサッカー教室を開催するなど、そうした地道な活動が地域との絆を育み、「市民クラブ」としての存在感を示すようになってきている。 それは今季の観客数が証明している。 順位は振るわず下位に低迷。 さらにJ1クラブライセンスを取得できないためJ1昇格の可能性がない中での戦いに関わらず、昨季よりも観客数が伸びているのだ。 それは地域に受け入れられるようになった何よりの証拠と言えるだろう。 今年3月、Jリーグの村井満チェアマンが水戸を視察に訪れた際、こう感想を述べた。 「水戸はピッチの内外でJリーグのモデルとしたいクラブ。 すごくいいクラブだと思います」 創設から20年。 地域と密着した関係を築き、健全経営を続ける現在の水戸を見て、「Jリーグに上げたのは失敗だった」と言う者はいないだろう。 「ライセンス問題」など多くの問題が立ちはだかっている現実もあるが、これまで何度も危機的状況を乗り越えてきた水戸に怖いものなど何もない。 20年かけて培ってきた地域との絆を大切にしながら一歩一歩、前へと進んでいく。 佐藤 拓也(さとう・たくや) 2003年に横浜FCのオフィシャルライターとして活動をスタート。 水戸は04年の『エル・ゴラッソ』創刊とともに取材を開始。 横浜から週に2、3回通い続ける日々を送っていたが、09年末に茨城に移住。 水戸中心に取材を行う覚悟を決めた。 そして12年3月に有料webサイト「」を立ち上げ、クラブの情報を毎日発信している。 著書は『FC町田ゼルビアの美学』『被災地からのリスタート コバルトーレ女川の夢』(いずれも出版芸術社)。 横浜 1 3 -4 18 いわてグルージャ盛岡 1 3 -6 J3日程.

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本間幸司

水戸ホーリーホック 選手 年俸

J2水戸、昇格の道開くか 月末にJ1ライセンス結果 悲願目標に奮起期待 サッカーJ2水戸ホーリーホック 沼田邦郎社長 が6月に申請したJ1クラブライセンス取得の審査結果が9月末に発表される。 クラブライセンス制度の導入以降、「J1昇格」を目標に掲げることができなかった水戸は、紆余 うよ 曲折を経て悲願に向けたスタートラインに立ちつつある。 J1ライセンスを取得し、終盤戦で奮闘する選手らの士気向上につなげたいところだ。 前年の12年に審査が行われ、水戸は本拠地ケーズデンキスタジアム水戸の収容人数がJ1基準の1万5千人以上を満たさないため、J2ライセンスの交付が決定した。 たとえリーグ戦で昇格の順位条件を満たしたとしても、J1昇格は不可能になった。 水戸は当初、同スタジアムの客席増設によるJ1ライセンス取得を目指した。 水戸市と協議し、13年9月には高橋靖水戸市長が観客席を増設する考えを明らかにした。 しかし、増設に必要な用地買収が難航し、実現のめどは立っていない。 17年春、かつての本拠地、笠松運動公園陸上競技場が19年茨城国体に向けた改修でJ1基準を満たすことが判明。 水戸は暫定的な本拠地移転を水戸市に打診した後、県や同競技場が立地するひたちなか市、那珂市、東海村と協議し、移転の了承を得た。 沼田社長は今年1月、新体制発表の場で「J1ライセンスを取ります」と宣言した。 沼田社長は苦しい胸中を明かした。 その思いから今回のライセンス申請は、J1昇格の順位条件を満たす場合のみ笠松運動公園陸上競技場に移転し、順位条件を満たせなかった場合はケーズデンキスタジアム水戸にとどまるという、前例のない2パターンを提示して行い、Jリーグの理事会を通過した。 高橋市長は8月末、「用地買収せずに観客席を増設できないか検討に入った」と表敬訪問した沼田社長に話した。 市は「 用地買収に向け 現在進行中」 体育施設整備課 と説明しつつ、同時に新たな打開策の模索を始めたとみられる。 沼田社長は、笠松移転は暫定的なものにとどめたい考えで、「ケーズデンキスタジアム水戸が駄目なら、新設のスタジアムを 水戸に つくる機運をつくりたい」とも話した。 昨季J3で優勝した秋田がJ2ライセンスがなく、昇格できなかったからだ。 また、現在J2町田はリーグ戦でJ1自動昇格圏にいるが、J1ライセンスを持っていないため昇格は不可能。 スタジアム収容人数のJ1基準は1万5千人以上、J2は1万人以上が絶対条件となる。 Jリーグ広報部は「ホーム試合が年間約20試合しかない中、クラブの収入を考えると基準の収容人数が必要」と説明する。 しかし、順位条件より強い拘束力を持つこの基準に、リーグ内部や加盟するクラブからは疑問視する声が上がっている。 沼田社長は「昇格と降格は競技力で争われるべき」と強調。 水戸としてはJ1ライセンスを得て、終盤戦で奮闘する選手の背中を後押ししたい考えだ。 今年は新クラブハウスの運用も始まり、細川淳矢主将は「今は全てがそろった中で、自分たちがやるだけなんだという危機感を持っている」と気を引き締めている。 「競技」「施設」「人事組織」「法務」「財務」の5分野56項目を審査し、基準に応じてJ1またはJ2ライセンスが認められる。 審査は毎年行われ、昨年はJ1ライセンスが40クラブ、J2ライセンスが7クラブに交付された。

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Jリーグ

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2014年のJ2リーグは全体の4分の3余りを消化。 いよいよラストスパートが問われる季節になってきた。 「最初からスパート」状態だった湘南が早くも昇格を決める一方で、2位以下は予断を許さない状況が続いており、下位の攻防も熾烈だ。 そこで「J論」では、J2の幾つかのクラブにフォーカス。 そのラストスパートに注目する。 最後となる第5弾は、あえて成績面では振るわない水戸に登場してもらった。 クラブを取材して10年になる佐藤拓也が、成績低迷にもかかわらず経営改善を為し遂げたクラブの転機を語る。 ただ、これだけ輝かしい出来事のない20年も珍しい。 水戸を取材してきた中で忘れられない言葉がある。 それは7、8年前、Jリーグ幹部を取材した時のこと。 取材の終わりに自分が水戸を取材していることを伝えると、その幹部は少し考え込んで、「水戸をJリーグに上げたのは失敗だったね」と真面目な表情で口にしたのである。 決して水戸を非難しようとしたわけではなく、あくまでそれは心からの声のように聞こえた。 確かに「失敗」だったと言わざるを得ない。 Jリーグに昇格した00年当時、水戸はホームタウンにJリーグ基準のスタジアムを持っていない状態だった。 さらに経営においても責任企業が支えているわけではなく、初代社長の故・石山徹氏の個人の財産で支えられて運営されている状態だった。 明確な基準で審査されてライセンスが発行される今ならば、間違いなくJリーグに上がることはなかっただろう。 しかし、当時は「Jリーグの仲間を増やしていこう」という風潮があった。 周囲から後押しされてJリーグ参入を認められることとなったのだが、それからが苦しみの連続だった。 「市民クラブ」と謳いながらも水戸市に活動拠点を持たないため、ホームタウンと密接な関係を築くことができず、スタンドは毎試合閑古鳥が鳴く始末。 それゆえにスポンサーも増えず、さらに08年には宮田裕司社長(当時)の飲酒運転が発覚したことによってスポンサー離れも進み、経営難に拍車がかかった。 かつてともに経営に苦しみ、リーグ下位に低迷していたヴァンフォーレ甲府やサガン鳥栖といったチームが経営を立て直して羽ばたいていった一方、水戸はいつまでも「失敗」の烙印を消せないまま、希望を抱けない状況が続いていた。 そう話すのは08年途中から社長へ就任した沼田邦郎氏だ。 09年にケーズデンキスタジアム水戸の改修が終了し、ホームタウンに待望のスタジアムが完成したことにより風向きが変わる予兆を感じながらも、それまでの赤字経営のツケは大きく、経営改善には至らず、11年の新体制記者会見の前に「経営危機」の会見を行う「最悪のスタート」(沼田社長)を切った。 しかし、そこから見せた変化は劇的だった。 それには「3つのきっかけがあった」と沼田社長は振り返る。 一つ目は柱谷哲二監督の就任である。 かつて日本代表のキャプテンとしてチームを引っ張り、「闘将」のニックネームで親しまれた知名度抜群の監督がやってきたことにより、県内で大きな注目を集めることができた。 同年5月の高橋靖市長の就任も、確かな追い風となった。 水戸がJリーグに昇格した際、水戸市はホームタウンとして認める代わり、ホーリーホックに「資金的援助を一切認めない」という覚書の提出を求めた。 その後もそうした関係が続いていたが、高橋市長は就任する時に「水戸市を盛り上げるためにホーリーホックを利用しない手はない」と考え、覚書をなかったものとしてホーリーホックをバックアップする方針を固め、同年には出資を決定するなど、サポート体制を整えた。 そして三つ目は、東日本大震災だった。 大きな被害を受けた影響によって茨城県内の経済は滞り、さらにスポンサー離れも懸念された。 しかし、未曾有の事態の中だからこそ、クラブが大切にしたのは「市民クラブ」としての原点。 それが起死回生につながったのだ。 クラブスタッフが支援物資を届けるために県内を奔走し、選手たちは志願してボランティア活動を行うなど地域のために尽力した。 「地域のために」という理念を体現したことで一気に地域との距離が縮まった。 「経営改善計画を立てて、新たなスタートを切ろうとしたところで東日本大震災が起きた。 これはもうダメかと思いました。 どうしようと考えていたが、とにかく地域復興のために活動しようと。 我々のことよりも地域に貢献することだけを考えて活動しました。 それによって地域密着が加速したような感じがします。 柱谷哲二が来た。 そして、高橋靖市長が就任して、はじめて水戸市から出資をいただくこととなった。 ポイントは2011年。 いろんなことが、ドドドッと動き出した」と沼田社長は述懐する。 震災後、スポンサーは離れるどころか、むしろ増えていき、経営は改善されて借入金を期限内に返済することができたのである。 11年から3期連続して黒字を達成。 経営面の立て直しにも成功している。 「クラブとしては2012年からが本当のスタートだと思っています」。 沼田社長は力強い口調で言い切っている。 震災以降、ホームタウン活動は年間600回近く行っており、さらにホームゲーム前には必ず選手たちが水戸駅前でチラシを配布し、来場を呼び掛けている。 柱谷監督は継続的に子どもたちを対象にしたサッカー教室を開催するなど、そうした地道な活動が地域との絆を育み、「市民クラブ」としての存在感を示すようになってきている。 それは今季の観客数が証明している。 順位は振るわず下位に低迷。 さらにJ1クラブライセンスを取得できないためJ1昇格の可能性がない中での戦いに関わらず、昨季よりも観客数が伸びているのだ。 それは地域に受け入れられるようになった何よりの証拠と言えるだろう。 今年3月、Jリーグの村井満チェアマンが水戸を視察に訪れた際、こう感想を述べた。 「水戸はピッチの内外でJリーグのモデルとしたいクラブ。 すごくいいクラブだと思います」 創設から20年。 地域と密着した関係を築き、健全経営を続ける現在の水戸を見て、「Jリーグに上げたのは失敗だった」と言う者はいないだろう。 「ライセンス問題」など多くの問題が立ちはだかっている現実もあるが、これまで何度も危機的状況を乗り越えてきた水戸に怖いものなど何もない。 20年かけて培ってきた地域との絆を大切にしながら一歩一歩、前へと進んでいく。 佐藤 拓也(さとう・たくや) 2003年に横浜FCのオフィシャルライターとして活動をスタート。 水戸は04年の『エル・ゴラッソ』創刊とともに取材を開始。 横浜から週に2、3回通い続ける日々を送っていたが、09年末に茨城に移住。 水戸中心に取材を行う覚悟を決めた。 そして12年3月に有料webサイト「」を立ち上げ、クラブの情報を毎日発信している。 著書は『FC町田ゼルビアの美学』『被災地からのリスタート コバルトーレ女川の夢』(いずれも出版芸術社)。 横浜 1 3 -4 18 いわてグルージャ盛岡 1 3 -6 J3日程.

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